人工物と私

「コンクリート造の3階以上の建物に避難してください」

テレビ局のアナウンサーが力を込めて東日本の太平洋沿岸地域の住民たちにこう呼びかけた。日付は2011年3月11日午後のことだった。

日本史上類を見ない大災害で多くの人が命を落とした。今日、動画投稿サイトには、津波によって住宅が押し流される映像が数多く投稿されている。黒い濁流が一瞬にして東北の人々の日常を飲み込んでいく瞬間を動画で目にする私たちは、10年前の惨状に思いをはせる。

動画は、高台や山からデジカメやケータイで街の様子を撮影しているものもあれば、学校、会社、ショッピングセンター、マンションから撮影しているものもある。その建物の多くが頑丈なコンクリート造りに見受けられる。

高さが足りず、建物全体が津波に飲み込まれてしまうケースや、津波の衝撃に耐え切れない建物も数多くあっただろう。その一方で、動画を見て確認できるのは高台に避難しきれず、命からがら駆け込んできた人々を黒い濁流から救った建物もあったということだ。

多くの木造住宅や漁船が流されていくの間近で見ながら、自分が逃げ込んだこの建物は大丈夫なのだろうかと心配し、祈るようにして津波が引いていくのを待った人は数多くいるだろうと察する。私も同じ気持ちで動画を見ていた。

こんなことを思い出したのは、3月14日の朝日新聞の朝刊「日曜に想う」を読んだからだ。こんな一文が登場する。

「人間の営みの驚くような肥大ぶりを示す数字が、先頃また一つ伝えられた。コンクリートやプラスチックなど地球上にある人工物の総重量が、同じ地球上の植物や動物などの総重量(生物量)を上回った」

こう推算したのはイスラエルの研究チームで、筆者は「20世紀初めには人工物量は生物量のわずか3%だったというから、この間の環境への負荷を思わずにはいられない」と憂う。そして、人間の営みに地球が軋みを上げている時代に「未来に向けての賢さがいまほど試されているときはないのだと思う」と締めくくっている。

この筆者は当然、人工物そのものがダメと言ってるわけではないだろう。あくまでも急速に人間の創造物が増加し、環境に負荷をかけていることを危惧しているのだと思う。ただ、ここで使われる「肥大」という言葉からは肯定的な意味はくみ取れず、人類に対して「大量生産・消費」の自制を投げかけているように読める。

ここで冒頭に戻る。10年前の3月11日、コンクリート構造の建物に助けられた人がいた。この強度なコンクリート製の建築物は、津波のみならず雨や風や地震から人間の身を守る。「3匹の子豚」に出てくる藁の家は、オオカミが息を吹いただけで吹き飛ばされた。コンクリートの建物はオオカミの息吹どころか、津波という破壊力をもった自然災害から身を守ったのだ。

20世紀初め。約100年前にあの規模の津波が来ていたらどうなっていたのだろう。山や高台に避難できなかった人が逃げ込める、ある程度の高さと津波に耐えうる強度を持った建物がどれほど当時あっただろうか。時事通信によると、東日本大震災で鉄筋コンクリートの建物に避難して助かった人は少なくとも約9700人いた(https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_jishin-higashinihon20110527j-02-w380)。100年前はこの9700人を守ることができたか。そもそも100年前に、テレビやラジオ、防災無線が避難を呼びかけることはできたのだろうか。100年前には成しえなかったが、10年前だからこそ死なずに済んだ命があったはずだ。

当たり前のように科学技術を享受している私たち。成熟した社会では、科学の負の側面にスポットライトを当てがちだ。だが、言うまでもなく科学技術は私たちの命を守り、生活を支えている。人工物が急激に増えているのは日本などの「先進国」ばかりではない。これまで満足に風雨を凌ぐ建物が存在しなかった地域にも当てはまることだろう。日本だって過去を遡ればすぐにそんな時代に行きつく。人の生命財産を守る「人工物」がこれまで手に届かなかった人々のところまで普及することを私たちは歓迎すべきだ。人類の技術を世界中に行き渡らせながら、同時に地球温暖化など環境問題を見つめていけばよいのではないか。「未来に向けての賢さ」を、現在にも少し向けてみよう。プラスチック製の人工物で文字を打ち込みながら、私はそう考える。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?