大衆の反逆
アフターコロナのいま、何が書かれるべきなのか。
〈べき〉というのが些か気になるという哲学好事家の方がいるやもしれないので、もう少し正確に問いを述べておこう。この国の出版状況はアフターコロナにおいてどこへ向かおうとしているのか。若い方たちはいったい何を読みたがるだろうか。そういった記述的な態度の問いなのだと思っていただいて全く構わない。
野村喜和夫は、2020年10月号の「現代詩手帳」で、岡井隆を追悼しつつ、〈かつて、前衛短歌は現代詩からその技法を学んだ。しかし、いまは、現代詩が短歌からその大衆性を学んでいる。〉といった内容を書いている。詩や短歌の今後の課題への果敢に臨もうとする姿勢が伝わる文章であり、触発された。たしかに、インターネットの普及は、現代詩よりも短歌にこそ、その人的つながりに大きな揺さぶりをかけたことは間違いない。他の出版状況も、いまや、ネットで話題の書き手を探して紙媒体の書籍を刊行するという流れがある。短歌は、その流れの先駆け的な分野の一つであったことはまず間違いない。つまりは、いままでの結社連合的に新人歌人が登場するというのとは、全く別なルートが短歌にはある。それを支えているのが、「大衆」である。
さて、「大衆」とは何か?
「大衆」をうるわしく見る向きもある。私たちの世代の哲学研究者は、「大衆化」した哲学書籍の出版状況の中で研究をはじめることになった。かつて書籍を刊行するとは、老大家の研究の集大成といった意味合いであったときく。しかし、90年代の哲学書の出版状況は、あたかも短歌の「大衆化」と酷似していた。哲学は象牙の塔で閉じ籠ったアカデミズムの言葉ではなく、市井の人々とともに生活の言葉で語られるべきである。〈魂の底からの問いを持ち、本気で考える人物であれは、中学生であっても哲学ができる〉と喝破したのは、中島義道であったろうか。
たしかに、新しい何事を為そうとする人々にとって、自らの正統性は体制の内部にはない。だから、アウトサイダーになるか、あるいは、インサイダーとして権力の奪取をねらわねばならないだろう。そのときに、権力を得る新たな力の源泉が「大衆」なのである。このように言うと些か皮肉めいた響きを読み込む向きもあろうやもしれぬ。いや、ここでは、「大衆」を巡る二つの考えの構図を概観せざるをえない。それゆえの言であり、ただの皮肉ではない。ここから、「大衆」には、少なくとも革新的な力があるということは間違いなく言いうるだろう。
対して、オルテガは、「大衆」を〈政治的なことにとりこまれた人物〉だと述べた。「大衆」をあさましく見る向きである。1930年に『大衆の反逆』を出版したオルテガの目に映ったのは、アメリカの台頭であり、ヨーロッパの凋落と混乱であった。そして、オルテガはそのような時代の曲がり角で「大衆」と呼ばれる有象無象がかつてヨーロッパの伝統にあった「古き良き秩序」を破壊しようとしているという。しかも、その時代趨勢による破壊が「大衆」自身を神経症的状況に追い込んでいくともいう。これは、19世紀にデュルケルムが自殺者統計から導いた〈アノミー=無・秩序〉による自殺、この発見と合い通じる視点がある。いわばこのような視点は保守主義からの「大衆」への視点と言っていいであろう。(もちろん、この先駆はエドマンド・バークだ。いまはバークの『フランス革命についての省察』を読解中だが、書籍の開始早々のページには、「規律ある自由」の称揚が述べられている。) ちなみに、オルテガとデュルケルムは共に「連帯」を次世代への解決策のキーワードに挙げている。そして、オルテガの理想はヨーロッパが国境を越えて連帯すること、つまり、今風にいうとEUであった。
では、問いに戻ろう。アフターコロナのいま、何が書かれるのだろう。コロナがこの日本社会を革新しようと、保守に目覚めさせようとも、「大衆」の動向を意識せざると得ないのは変わりはないのではないか。いや、些か以上に急ぎ過ぎた。この問いを分析する概念は本当に「大衆」で良いのだろうか。出版の売り上げ数は今後ますます落ちていく。18歳人口もますます落ちていく。そのとき、「大衆」はこれまでどおりの顔の見えないような、その他大勢などではないのではないか。隣近所で肩を組み合えるとまでは言えなくとも、少なくともその輪郭がもう少し浮かび上がってくるのだと言えることは、まず間違いないだろう。
何が書かれるか。それは書きたいものが書かれ、読みたいものが書かれる。答えは身も蓋もない。しかし、だからこそ、何かをやりたいという意欲が鍵だ。意欲にこそステュアート・ミルは自由の根源を見たが、この同じ意欲を持つ読み手をどう探し、(顔を向き合わせつつ、肌感覚で、)どうつながるかが、「大衆」すらも崩れ去りつつあるアフターコロナのわれわれの課題なのである。それは、冒頭の野村喜和夫を受けるなら、チャレンジングな課題である。