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リベラリズムのメタモルフォーゼ
リベラリズムは現在大きな変質の時を迎えている。現代におけるリベラリズムの根本思想は、人権の普遍性であると考える。つまり、たとえ、自分のことでなくとも、人間であるなら浴するべき、自由や平等などの民主的な価値に浴していない人々がいるならば、できる限り彼らに手を貸そう、というのがリベラリズムの教義であり続けたと考えられる。その教義は、キリスト教思想の現代版であり、アメリカこそがその盟主であったわけだ。
ところで、リベラリズムの訳語は「自由主義」であり、わが国の代表的な辞書である『広辞苑』も、リベラリズムではなく自由主義として立項している。曰く、「封建制・専制政治に反対し、」「すべての経済活動に対する国家の干渉を排し、」「自由な議会制度を主張する。」とある。すなわち、この説明は、自らの価値を毀損する権力へ対する抵抗の思想であると読める。しかし、これでは、20世紀のアメリカの対外行動(少なくともその大義名分)を説明できない。朝鮮戦争やベトナム戦争、1991年の湾岸戦争、1993年のPLOとイスラエルの和平調印、2001年の同時多発テロ以降の中東侵攻。アメリカは〈オセッカイ〉なくらいに他国へ干渉してきた。
ただし、〈オセッカイ〉なのはアメリカだけではない。人間において多少ともリベラルな性格なものは、たいてい〈オセッカイ〉ではあるまいか。じつは、自由主義から変質した、リベラリズムはそもそもが〈オセッカイ〉な性格をその思想的な本質要素として持つと言える。われわれが先に特徴づけたリベラリズムの根本教義を、負の側面を強調して言い直せば以下のようになるだろう。つまり、たとえ、自分のことでなくとも、人間が有すべき、リベラリズムが想定するところの自由や平等などの民主的な価値を有していない人々がいるなら、是が非でもそのような人々がその価値を有するように手を出していこう、というのがリベラリズムの正義となってきたのではないか。この負の側面はポリコレに象徴的だ。はじめは、〈思いやり〉であったはずだ。その言葉づかいや行動によって傷つく人がいるならば、その言葉づかいや行動は控えよう。何がハラスメントなのかを決めるのはまず傷ついた人の主観なのだ。その論理はいまでも必要なところがある。しかし、はじめは〈思いやり〉であったものが、運用を続けるうちに手続き的になっていき、〈オセッカイ〉になっていくということは、市井に多くみられまいか。
リベラリズムは変質の時を迎えている。では、だからと言って、われわれはその反対の専制主義を採用するべきなのか。そうではない。リベラリズムの〈オセッカイ〉を嫌って、〈オッセカイ〉の極点ともいえる専制に身を委ねるというのは、単に論理的に矛盾した行動だ。問題は何が〈オセッカイ〉であり、どう〈オセッカイ〉を是正していくかを民主的な手続きで構築していくときなのだ。
リベラリズムはどう変質すればいいのか。マイケル・サンデルは、「謙虚さ」が求められると言ったが、同じように、〈ちいささ〉が求められているのではないか。未来の方向はまだ定まっていない。ひとつ寓話を置いて締めくくろう。
こんもり森には、たくさん動物。
ぽんぽこ子だぬきは、おせっかい。
森のあちこち、顔出して、みんなのためにぽんぽこり。
やあ、きつねさん、こんにちは。どうしたの。
やあ、子だぬきさん、自転車が動かなくなってしまってね。
それは大変、タイヤがパンク。たぬきが空気を入れてあげるね、ぽんぽこり。
こりゃ、ありがたい。
ところで、きつねさんは太りすぎ。だから、パンクもするんだよ。たまには歩かないとね。
こりゃ、参った参った。
こんもり森には、たくさん動物。
ぽんぽこ子だぬきは、おせっかい。
きつねさんにも、おっせかい。
それでもぽんぽこ小さいもので、何だか、おこらず、かなしまず。
やあ、りすさん、こんにちは。いい天気だね。
やあ、子だぬき、ちっこいね。天気はいいけど、お中がへってね。
それは困ったね、いっしょに、栗の実拾おうか。
こりゃ、ありがたい。
ところで、りすさんはさびしんぼう。いつも独りでいないで、仲間をつくって木の実を貯めて。
こりゃ、参った参った。
こんもり森には、たくさん動物。
ぽんぽこ子だぬきは、おせっかい。
きつねに、りすに、おせっかい。
それでもぽんぽこ小さいもので、何だか、おこらず、かなしまず。
ぽんぽこぽんぽこ、ぽんぽこり。