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『判断力批判』の天才論

 世にはいろいろな「天才」が存在する。果たして、そんな天才たちとわれわれは関係があるのだろうか。普段の暮らしの中では、無関係に思える「天才」が、カントの『判断力批判』においては、かなりの分量を費やして叙述されている。
 『判断力批判』は、カントが美的判断について考察した書として有名である。そこでは、美とは、目的なき合目的性として考えが進められる。その逆説表現が何であるかはひとまず措いて、なぜ、美と天才がかかわってくるのだろうか。
 われわれは、天才などという遠くはなれた人物とは、無関係に暮らしのなかで、自分一人の判断で、何が美しくて何がそれなりなのかを、判断しているのではないか。そこで、すこしだけ、カントを読んでみよう。

「天才は模倣の才とまったく正反対に置かれねばならぬことについては、あらゆる人が一致している。f183」 

 ここに、「模倣の才」と呼ばれるものの具体例として示されるのは、ニュートンであったりする。われわれは、「ニュートン」といえば、偉大な科学者であり正に天才だと思っている。しかし、カントがここで「天才」と呼ぶのは、〈けっして真似できないもの〉なのである。そういうものとして、カントが考えている具体は、芸術作品である。

 「そうした芸術上の技術は伝達されえず、各人は直接それを自然の手から受けとらねばならないのでさる。f185」

 しかし、また、それが天才であるとわれわれに知られなければ、彼は何者でもない。そこで、天才にはやはりある程度の規則なり範型なりがあるということになる。ただし、その規則なり範型は、先に記した「模倣の才」とは異なる。つまり、芸術作品や芸術的天才については、われわれは、科学的な判断(構成的判断)とは、別種の判断をしているということになるのだ。そこで、カントが考察の更なる対象とするのが、「趣味(taste)」である。
 なるほど、趣味の洗練ということは大切であろう。ここで、最初の疑問に戻ってみよう。すなわち、われわれは、天才などという遠くはなれた人物とは、無関係に暮らしのなかで、自分一人の判断で、何が美しくて何がそれなりなのかを、判断しているのではないか、という疑問である。美的判断を他律的なものと考えるならば、人類共同体のなかで稀に生まれる天才にわれわれ残りの成員が美的判断を〈倣う〉という図式になる。
 一方で、そもそも、そのように倣うためにも、天才とわれわれ凡才で共通項がなくては、美についてのコミュニケーションが不能となろう。つまりは、凡才のわれわれにも天才性が、なくてはならない。凡才の天才性であり、天才の凡才性であるところの何か必要なのだ。そこまで考えると、先の他律図式は、そのまま、凡才による自律的な美的判断を前提して成り立っていることなりはしないか。それは宛も、何がおいしいかは、結局自分の舌で決めるしか方法がないのだが、他の誰かがおいしいという食べ物を食べながら舌を肥やしていくように、美的判断もあるということだ。

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