ハーフの子を産んだ私が思うこと
「ハーフの子を産みたい方に。」
着物の広告が話題だ。 3年前の話らしいけど、読んだときはびっくりした。こんなにも「ハーフ顔」や「女性の出産」についてセンシティブな時代に、本当にこのコピーが入選したのかと。フェイクニュースかと思うくらい、ちょっと信じられなかった。
私自身、着物好きの一人として、外国人と結婚した者として、そしてハーフの子の母として、傷ついた。
着物を着る目的が、外国人にモテるためだと思うなよ。
ハーフの子が産みたくて、外国人と結婚したと思うなよ。
怒りや呆れや悲しみや。いろんな感情が渦巻いてうまく言葉にならず、私にしては珍しく感情をそのままにツイートしてしまった気がする。でも怒りや悲しみを乗せただけの言葉は、本当に私のすべてを表しているわけでもなく。ちゃんと落ち着いて考えてみたことをとどめておきたいと思って、このnoteを書くことにした。
「旦那さん外国人なんだ、じゃあ子どもはハーフなんだ。いいなあ。私も外国人と結婚するのが夢だった」
着物コピー炎上と時を同じくして、知り合いにこう言われて複雑な気持ちになった。
今までも、そんなふうに言われることは度々あった。娘のことを「ハーフはかわいい」と言われたとき一体どんな返答するべきなのか。ずっと悩んできた。
娘をハーフとして特別視されることにもやもやしたものを感じつつ、そこに大きな声で反論できない自分がいたのは、きっと自分もそう言っていただろうな、と思うからだ。それも褒め言葉として。
自分のなかにある「ハーフってかわいいよね」という感覚。
私が思春期の頃は、いわゆる「ハーフタレント」と呼ばれるモデルやタレントの全盛期。そんな「かわいい顔」と比べてがっつり日本人な自分の顔が嫌になったこともあるし、二重になりたくてアイプチを使っていたこともある。
テレビが、雑誌が、まわりの人たちが言う「かわいい顔」は、いつの間にか私の感覚に刷り込まれ、いつの間にか自分の価値観になっていたのだと思う。
「ハーフの子が産みたい」
そんな露骨に考えたことはなかったけれど、今、着物のコピーに怒る自分を振り返ってハッとする。
じゃあ、お前はちがうのか。
妊娠がわかったとき「夫に似ればいいけどねえ」と何度言ったことか。腫れのひいた娘のまぶたに線が入ったとき、髪がだんだんと明るくなったとき、なんだかホッと安堵してしまっていなかったか。
カタカナの名字、アメリカ人の父を持つ娘が、いわゆる「ハーフのかわいい顔」じゃなかったら。「あの子ハーフなのに全然それっぽくないね」と言われて傷つくこともあるんじゃないか。そう思っていたから。
「それっぽい」ってなんなんだ。「かわいい顔」ってなんなんだよ。
こんなふうに考えていたくせに、怒っていた自分が恥ずかしい。だけどここでちゃんと認めておかなくてはいけない。目をそらさず、自分の中にも、ハーフへの先入観や偏見や、まだいろんなものがあるということを。
自覚した上で、告白した上で、変えていきたいと思う。母親として、発信者として、社会で生きるひとりの人として。
このままでは娘も「かわいい顔」や「ハーフとしてあるべき姿」の呪縛から抜け出せない。
白人とのハーフは「モデルみたいな顔じゃない」と悩み、白人以外のハーフは「同じハーフなのに」と悩み、日本人は「ハーフみたいな顔じゃない」と、誰もが自分を受け入れることができない。そんなの悲しいし不毛だ。
「かわいい顔」なんてものは、ない。「正解」なんてものは、ない。
だから特定の容姿や、立場や、生き方を持ち上げて特別視して「正解」と「不正解」を作るのはやめよう。「ハーフの子」なんてひと括りで呼ぶのは、人を見るのは、やめよう。
3年で人々の反応が変わるくらい時代は動いている。今からだって少しずつ変えることができたなら、それがきっと、娘が生きやすい次の時代をつくっていくはずだから。
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