小学校教諭を辞めた理由②ー夢を語りたいー
子ども達にとって「楽しい学校」をつくりたい
25年間の教職員生活の中で、常に考えていたのは、子ども達にとって「楽しい学校」をつくっていきたいということでした。
そのために、一番意識していたのは、学級を安心安全な場所にするということでした。ありのままの自分を受け入れてもらえるように、短所よりも長所に目を向けて、関わり合っていくことでした。相互に頑張っている姿や成長しているところを共有する活動を継続していくことで、みんなで成長していける学級づくりに努めていました。「失敗しても笑われない」「挑戦したことが認められる」そんな学級でないと子ども達が成長できないとの想いからでした。また、子ども達にとって、自分が成長できていると実感できることが、学ぶ楽しさに繋がると信じています。
ある年、子どもに言われて嬉しかった言葉があります。それは、出張が3日続き、地方祭に顔を出した日のことです。「先生がいないと、学校が静かに感じます。」と、担任を離れて3年が経った子が言ってくれました。「先生がいつもうるさいの?」って聞き返すと、「なんか笑い声が少ない気がします。」という答えが返ってきました。頑張っていることが、間違いじゃないと感じられたエピソードでした。
子ども達から学んだ「学び方」
関わり合いながら学ぶのが楽しい
初任者研修〜5年経験教職員研修を受けていた頃に盛んに言われていたのが、「分かる、できる」授業でした。教師が、わかりやすい授業を展開し、授業の中で子ども達が課題がクリアし自信をつけることが大事ということです。しかし、私は、この考えにモヤモヤが・・・
大半の子ども達から、「わかりやすい」「楽しい」と言われていたのだが、授業中にクリアできていた課題が、時間が経つと出来なくなってしまう子が多くいたのです。つまり、学習した内容が、定着していないのです。
このことから、教師が頑張る「分かる、できる」授業は、子ども達にとっては「分かったつもりになる、できたつもりになる」授業なのではないかと考えるようになりました。
そこで、子ども達が主体的に学び、自分の力で学習する力を育てていく必要があると考えました。今から15年前、当時担任していた子ども達に、授業で一番楽しいことを聞くと、「友達といろんな意見を出し合いながら、答えを見つけていくこと」でした。子ども達は、コミュニーケーションをとりながら学ぶこと、他者の意見を尊重しながら協働する力があること、自分たちの力で答えを導き出す力があることなど、多くのことを学ばせてもらった一年でした。それまで、いかに効率よく教え、知識を伝達することにこだわった授業をしていたことか・・・。教師が教える授業は、子ども達を受動的な学習者にしているのだと反省することにつながりました。
このエピソードから、教師がなるべく話さない授業を目指すようになりました。教師が主体となる「ティーチング」から、ゴールへの見通しを持たせる「コーチング」と多様な意見や多角的な見方を引き出すための「ファシリテーリング」を重視した授業を心がけるようになりました。
(子ども達の実態や発達段階に応じて「ティーチング」が有効な場合もあります。「ティーチング」を全否定するということではありません。)
子どもは、叱責しても変わらない
「ダメなものは、ダメ」としっかり教える必要があると考えています。そのため、過ちを犯した子に対し、厳しく指導をしていました。若い頃は、それこそ鬼のような形相だったのではないかと反省しています。
そして、そのような指導をして反省を促した子が、同じような過ちを繰り返すことに、「またか・・・」と呆れてしまうことが度々ありました。叱責をする側もエネルギーを使うし、お互いに嫌な気持ちになってしまうので、何とかできないかと常々考えるようになったのです。
そこでたどり着いたのが、生徒指導主事をしていた時に学んだ「自己指導力」と、アドラー心理学です。子どもが、自分自身の行為を振り返り、改善点を見つけ、今後の行動を考えるということをしていくと、叱責をする必要がなくなりました。そして、失敗から学び、自分の意思で今後の行動を決めていくので、問題行動が減少していく効果が見られるようになりました。
厳しく指導をされる先生方には、精神的ストレスを与えるような叱責は、子ども達の人権侵害にあたることを理解してほしいと思います。
(命に関わる問題や人を傷つけるような人権に関する問題を除きます。例えば、喧嘩の最中にカッターナイフの取り出した場合などの緊急時には、行動を制止する効果があります。)
学び方は、人それぞれ
学校の常識にモヤモヤしているものはたくさんあるが、その最たるものが「学力向上」への取組でした。例を挙げると、ドリル学習の重視、月末テスト、一律な宿題等です。
私も当初は、教育界の慣習となっていた上記の学習をしていくことは、普通のことだと何の疑問も持たずにやらせていました。しかし、このような取組をしていても子ども達の学力が上がっている実感を持つことができませんでした。いやいや課題に取り組む子ども達と、丸つけに追われる教師の姿が、日常化していたのです。
5年生を担任したある年、ある男の子が「先生、宿題が面白くありません。」と言ってきました。この子は、3学期に数検を受けるのだと、普段から中学2〜3年生の数学の勉強をしていました。この時から、宿題を一律で出すことをやめました。
その次の年に担任をした3年生の学級では、一定のルールを決めてはいましたが、家庭での学習内容は、自分で決定し、取り組み方を振り返り、より良い学習ができるように自己調整していくことを続けました。すると、毎年3学期に行なっている学力調査の結果、学級平均の偏差値が前年度よりも10近く上がっていたのです。
決められた内容を嫌々取り組む学習と、自分の意思で決めた内容に取り組む学習では、やる気に違いが生まれるのは当然です。
ありのままの自分が受け入れられる環境で人は育つ
上記の3年生の学級から複数人が、翌年新設される支援級に入級するということで、希望をして担任をさせてもらいました。
絵が得意だった子は、友達が喜んでくれる絵を描きたいと、題材や色彩に拘りながら絵を描いていました。交流学級で彼の作品が掲示される個展コーナーができていました。
当時、鬼滅の刃にハマり、一人で紙を使って刀を作り続けていた子は、その刀の出来を友達に認められたことがきっかけで、友達のために刀作りをするようになりました。半年後には、友達のために行動している姿が多く見られるようになりました。
運動で自信をつけた子は、1学期のうちから陸上大会に出たいと、自分の意思で、毎日坂道ダッシュをしていました。また、ダンスを習っていたその子は、交流学級の子を誘い、休み時間にダンス教室を開催していました。
このように、自分の得意な事や興味があることで、人の役に立ちたいと行動できることが、自己肯定感の高まりにつながることがよくわかりました。そして、どんどん人と関わっていくので、その良さを知ってもらう機会が増えていくのです。
4年生も終わりに近づいた頃、交流学級のある女の子が、「この1年で、一番成長したのは、支援級の子達だね。」と、言ってくれました。「そんなことが言えるあなたも素晴らしい。あなた達がいたから、支援級の子達が成長できたのだよ。」と伝えました。
お互いの良さを認め合える、安心安全に活動できる環境こそが、成長していくのに必要なのです。
夢を語ってはいけませんか?
このように、毎年、子ども達から様々なことを学び、そんな子ども達を成長させれるように様々な情報を仕入れ、工夫し、実践をしていました。尊敬できる先輩方とも「子ども達に本当に必要な教育は何か」議論を繰り返し、理想の教育を求めてきました。子ども達がより成長できる方法を毎年積み上げていくので、実践していく内容は濃くなっていく自負があったし、一般的な取組と異なっているという自覚もありました。ただ、そのチャレンジが許される環境があったので、子ども達のために頑張ることができました。
しかし、生まれ故郷の大州への転勤で状況が一変しました。
大洲市では、「大洲の教育スタンダード」というものに沿って、授業を構成しろというのです。経験年数が浅く、型を作り上げていく過程では有効かもしれませんが、均一性が求められる突き抜けたことができないシステムです。これまで試行錯誤しながら培ってきたノウハウを捨てないといけないのです。
やりたいことができない飛車角落ちの状態で、校長から「先生の教育で子供達が成長したら、話を聞くよ」と言われました。無理でしょ・・・
愛媛県で最下位レベルの学力なので、脳科学の根拠を基に学力向上の取組を変えるべきだと主張したら、「学校の批判ばかりしている」と指導を受けました。
学級で話合い、合意形成を図った内容に不満を持つ一部の子が学年主任に愚痴ると干渉が入ってしまう。挙げ句の果てに、この学年主任から「夢ばかり語るな。」と言われました。
子どもに夢を語らせる職業である教師が夢を語れないなんて・・・
私は、子ども達が幸せに生きていける社会を作るために、教育が大切だと考えています。より良い社会を形成するために、子ども達が楽しく、主体的に学べる学校をつくりたいという夢があります。
公立の学校で、夢を語ってはいけないのならば、夢を叶えるための場所をつくればいい。そういう想いで、「学VIVA」のチャレンジを始めました。
私の挑戦が、少しでも今苦しんでいる子ども達、そして、未来を幸せに生きていく子ども達のためになったらいいなと想い、頑張らせていただきます。