
小学校教諭を辞めた理由①ー生きた証を求めてー
小学校教諭は、子どもの頃から夢見た職業でした。7年間の講師を経験し、採用倍率14.8倍(2024年度は、1.5倍)という難関を突破し、やっと合格できた小学校教諭でした。安定した職業であり、続けていれば生活に困ることはなかったでしょう。
そんな小学校教諭を辞めた理由を紹介していきます。
父と母との死別
中学校教諭をしていた父は、子どもの頃、朝起きた時には学校へ行っていて、夕飯を食べ終わる頃に帰ってきていたと記憶しています。学校が荒れていた時代なので、夜遅くに帰ってくることも多々ありました。また、部活動の指導も熱心に取り組み、陸上競技の審判員もやっていました。
そのため、父と遊んだ記憶は、それほど多くはありません。しかし、勤務先の体育祭や部活動の指導の際に、生徒達に関わる姿が幼い私には、ものすごくカッコよく見え、憧れの存在でした。
歴史好きで、知識が豊富だった父は、考古学者を目指していたが、4人きょうだいの長男だったため、地元に戻り教諭になったということであった。この話を聞いた時、子どもながらに固定観念に縛られ、夢をあきらめなければならない理不尽さを感じました。そんな経緯があったせいか、父は、私の意思決定を尊重し、やりたいことをやらせてくれていたと感じます。
そんな父が、50代前半で脳梗塞を患ったことはショックでした。当時、大学卒業を控え、海外で日本語教師になりたいと考えていた私は、卒業後、父の近くにいられるように、地元に戻り教師を目指すことにしました。
懸命にリパビリを続け、復職をした父であったが、4年後に2度目の脳梗塞を発症してしまいました。後から聞いた話では、前日から体が傾いていたらしいが、「子ども達の卒業式が終わるまでは・・・」と無理をしたのではないかということでした。
それから20年、左右の脳梗塞のせいで、体を動かすことができず、寝たきりの生活を余儀なくされ、筋肉は退化し骨と皮だけ体となっていきました。その姿を見る度に、悲しくなってしまいました。
20年間寝たきりの生活の中で、何を想いながら過ごしていたのでしょうか・・・3年前の年末、静かに息を引き取りました。
専業主婦として、家族を支え続けた母は、明るく社交的で、誰にでも話しかけていく人でした。そして、自分のことよりも周囲にいる人のことを大切にする人でした。
ただ、保守的な人だったので、常に新しい考えを取り入れチャレンジしていきたい私の考えは、なかなか理解してもらえませんでした。よく意見が対立し、イライラのせいで酷いことを言ってきたことを今更ながら後悔しています。
病に倒れた父を支え続け、家を守り、子や孫の喜ぶ顔を見ようと尽くしてきた人でした。辛いこともあったでしょうが、私たちに文句を言うこともなく、与え続けてくれました。
父が亡くなった後、母が自分の好きなことをしながらゆっくり暮らせればいいな、孫の成長を見守っていってほしいなと思っていたのですが、父の死からほぼ1年後、父の後を追うように亡くなってしまいました。
利他の精神が強かった二人に育てられたことは、私の生き方にも大きく影響を与えていると感じています。そして、自分自身が50歳を目前として、「死」を意識するようになりました。残りの人生をどのように生き、どのように死んでいくかを考えた時、このまま小学校教諭を続けていくのは違うなと感じてしまいました。
教師は、子ども達が成長していく姿を間近で感じることができるやりがいのある職業です。しかし、現状では、これまでの教育の改善点を捉え、これから求められる資質・能力を育てていくために脳科学や心理学に基づく教育を実践していくためにチャレンジしようとしてもなかなか許してもらえない環境にあると言えます。つまり、学校は、問題を起こさないために現状維持を最優先する成長しにくい組織となっているのです。固定観念と同調圧力により、やりがいを感じにくい職業だと言えるでしょう。
残念なことですが、みんなが同じを求められる教育なら、私でなくてもいいと考えるようになったのです。決まった内容を同じように教え、決まったルールを守らせることを大切にしていくことを求めるのなら、全国一律AIに教師をやらせた方がいいでしょう。
AIには処理することができない人間らしい資質・能力が、これからの時代に求められているのです。それは、人間にしかできない教育です。
私にしかできない教育を思う存分していくことで、子ども達の人間力(生きる力)を育てていきたいと考え、「学VIVA」の挑戦をしていく決心をしました。
私の挑戦が、少しでも今苦しんでいる子ども達、そして、未来を幸せに生きていく子ども達のためになったらいいなと、頑張らせていただきます。