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表現者、それも芸術家という覚悟。
帰国前に散々noteで心の整理をつけて、勝手すぎるほど日本での生活に流され溶けて没頭して覚醒しました。
とりあえず、NYCからの帰国後1本目の舞台、PRAY▷theatercompany版滝の白糸、千秋楽を迎えました。
それで覚醒してしまったことがある。それを綴りたい。
言葉にするのが上手くないからこそ、言葉ではなく身体表現の道を選んだのは確かだが、蕎麦焼酎の力を借り、言葉にできそうなきがするのでnoteにまとめてみる孤独な独者論ー愚(モノローグと読ませます)、でも確実に無駄ではないmonologueモノローグ。
その1、TwitterでもInstagramでも発信してしまったが、人材ではなく表現者としての舞夏を追求、創作・捜索して生きたい旨。
その2, 仕事があるところに自分は流れのままに行くでスタンスで間違いはないという確信が芽生えた、NYCだろうが日本だろうが自分に嘘さえつかず、親の脛齧りを禁物とし故に理想が確信に変わった旨。
その3, 24と25の境目、プロかアマか甘かっていう大事な架け橋であることの自覚、そのための自分捜索・創作の話。
その1、2、3をまとめると;
表現者とか芸術家って本当に一般の人間ときっと見ている世界がまるっきし違っててたまにどうしようもなく孤独で寂しくなるのはきっと自分の居心地の良い行き先、道は誰も決して一緒に歩いてくれはしないような暗いトンネルのようなところで、でも自分にとてはその暗いトンネルの数キロ先にある小さなろうそくの光の温もりが感じれるところだからだと思う。そしてその創作・捜索期間の中でびっくりするくらい同じ空間でいるって思える人はその暗いトンネルを少しでも隣で一緒に灯りを持ってともに歩いてくれる人だと思う。シャットアウトしたくてもできにくい人たちっていうのは歩いてきた道を引き返させようとする空虚的な脅しで、でもそんな空虚的な脅しをかいくぐって、時には立ち止まってしまってもこれは自分がそれでもこのトンネルを突き進んでいくからなんだって覚悟に時間をかけて変えてい区ことなのかしらと私は勝手に解釈しています。ただダンスってじゃなくて芸術的に踊りと向き合い始めるとだんだん自分に嘘がつけなくなってくる。ダンス界の人材が一人の芸術家、身体表現者に変わり始める時、もう引き返せないと覚悟する時、特に空虚的な脅しがトンネルに反響して発せられた時よりも数倍になって聞こえてくるかもしれないけれど、それでも一緒に灯りと灯して少し一緒にトンネルを散歩してくれる同志は本当に人生で出会うべきだった人間たち;それがたとえ30秒でも30年であろうとも。
少しでも共感いただけたら幸いです。
わからなかったら質問大歓迎。
全くもってちがう人種だと思ったらそれも大歓迎。
私はとにかく表現者という人生を選んだことが何よりの幸せです。 そして芸術家としての孤高のトンネルを突き進むために覚悟、準備、意識、情熱、そして引き返せないとわかりきっている孤独にも勝てる愛を。
育む期間を。過ごして参りたいとも思います。