差別だという人の差別意識と、侮蔑だという人の被害者意識のさばき方について【ネット上で健康的に意見を言える雰囲気をつくる会】

こんにちは、まなだむです。
最近は良い時代だとおもいます。私のような王道からはじき出され、正社員として働かず、日本のGDPにも貢献せず、殴られたり金銭の搾取に苦しんで社会的弱者になってしまった者もネットを通して発言権が「大きく」与えられているような「気がする」んです。

(もちろんすべて幻想です。声がでかいだけです。)

ひと昔前なら通らなかった声も通るようになり、社会の中で膝を抱えて泣き寝入りするしかなかった人たちの声も聞こえてくるようになりました。良いことではないでしょうか。いろんなひとの意見が聞けるのは素晴らしいです。

ただモヤっとするのは、なにかと批判して叩くやつ、中身すっかすかの正義棒をふりまわすやつ。そしてすぐごめんと謝るひと。(どんなことにも批判的なコメントや叩きを加えるひとがいることはどの国のどの時代にも共通することだと思うのでひとまず置いておいたとしても)

「一体何を求めているのかさっぱり」なとりあえず叩いているひとに対し、「批判をしている人は全体の何割なのか?」、「重大かつ緊急性があることなのか」あと様々な点を考慮せずに、この言葉は差別用語だ、侮蔑だ、批判があったので訂正します、取り下げます、はいそうですかすみません……。というのは両者、思考停止な気がします。

民主主義とマイノリティの泥沼の戦争が横行するネットリテラシー(低レベル)時代。多数決で決まったから少数派は切り捨てだなどと言われると真っ先に死ぬのが私です。みんながなるべく幸せであるように考えていくことは、共産主義の揺り戻しなのか、新時代の幕開けなのか私にはわかりませんが、「弱者の品格」とも言うべきなにかを打ち立てたいと数年前から企てていたので、改めて健全な意見の交わし方考えてみたい、というのが今回のタイトルであります。

差別だという人の差別意識と、侮蔑だという人の被害者意識

いったいこの地球どこに、万人がしあわせになれる文があるのか、発言があるのか。そんなんこと誰にできるのかと思っています。ねえんだよ!そんなの!どこさがしたって!被害者意識の強いひとはまどみちおのポエムにだって問題点を指摘します。

私と私の参画しているチームは恋愛、結婚、性、LGBT、精神疾患、性暴力、DVとあえて多くの人が好き好んで発言しないことも積極的に発信するので、へんてこな絡みが多くて困ります。内容にほぼほぼ関係ない、YO!差別〜侮蔑〜とラップしちゃってる軍団。

健康なきもちの持ち主ほど、記事に反応しないので、ネット上では批判だけが蓄積されてあたかも批判が多い記事にしたてあげられていきます。なんか、こう……ネット上でも健康的に意見を磨きあげたりできないんでしょうか。ひと昔前は匿名性の高いアカウントからは叩いたりする人も多かった印象ですが、最近はFacebookみたいにわりと個人が特定でき易いものからでも平気で変なこと言ってきますもんね。まぁネットでお婿さん募ってる私が言えたことじゃないか!(てへぺろ!

そろそろ見るだけで腸内フローラが死滅しそうな”叩き”やエレガントさ皆無の発言するだけして鬱憤晴らしてる人を明確に線引きするガイドラインが必要そうですね。たたきはカツオだけにしてよね!

そこで私が基準にしているSNSや原稿への返信の仕方や、考え方をまとめてみました。

レベル1:子どもの会話
差別だ侮蔑だと言いっぱなしなのは、子どもの会話で思考停止。
「その発言、差別ですよね?」はい、意見が言えました。えらいね〜〜。
深くは考えていないので、理由を聞くとこたえられない。返信すると威圧的で会話にならない。ネットで叩いてる人たちはだいたいこのレベル。直接会ってもこんな威圧的なのかしら?お友達はいるのかしら?と心配になる。


レベル2:未成熟なおとなの会話
「その発言、◯◯にとって差別であり、傷つくひとがいると思います。」
まぁ少し明確になりました。ネットってふしぎなもので、直接会話するときの何倍もスラスラ意見が言えちゃうものなんです。だから会話時の言葉を鋭くしないことはとってもスマート。これも知性ですわね。こう言われれば「そんなひともいるんですね。勉強になります。」と返せるもの。しかし、私が考えたこの意見はどう思う?と悲しくなるくらい論点のずれたことばかり言うのがこのレベル。

レベル3:成熟したおとなの会話
「この点については同意です。しかし最後の発言ですが、▲▲の場合、◯◯にとって差別的に聞こえる場合があります。よってこのように〜〜〜と言うと語弊がないと思います。」と代案を提示する。ここまできて、やっと、あこの方とはお話したいなとか、会ってみたいなと思います。私の場合は代案を提案できて、なおかつその案に説得力がある場合のみ返信するようにしています。(そもそも、差別って大きすぎる主語の場合、個人に宛てて差別なおせ!と意見するのはアプローチとして間違ってますけれど。)

「先生!◯◯ちゃんがボクにこんな酷いことを言いました!」と言って先生が良きにはからって解決してくれるのはせいぜい小学生低学年までです。大人ならこうすべきだ、というつもりはありませんが、せめてもうひとつ上のステップに……いきたい……ですね。

VTRと思考を回転させよう

政治問題でいつもモヤっとしていることに共通しますが、たとえば「◯◯反対!」とデモをしているひとたちの頑張りにいまひとつ同調できないのは、じゃあどうするの?あなたが政治家ならどういう政策にするの?と思ってしまうからです。もちろん市民すべてが政治家ではないので、べつに政策を考えなくてはいけないということではないし、そもそもデモは意見を掲げることが目的なので間違ってませんが、相手がいる前で意見を言いっぱなしにしたり、イエスかノーの問題だったら子どもにでも答えることができるますよね。

生きてるだけで傷つくのが世の中?

息を吸って吐いているだけなのに、東京都にいれば高い住民税がかかります。「森の生活」で有名な作家ヘンリー・デイビッド・ソローは「社会なんてクソだ!俺は森の中でひとりっきりで社会の誰の世話もしてもらっていない。住民税?水道税?帰ってくれ!」と役人を追い出していました。

息をしているだけでも……何かが起こってしまうものです。私たちはソローのようにすべての関わりを断ち切って追い出すわけにはいきません。何かが起こるのは誰にもとめられないし、誰のせいでもありません。ネットの生活から離れられなくなった今、会話のエレガントさなくして意見をぶつけ合うのは不可能です。

だれもが簡単に意見が言えるようになったことにありがたさを覚えつつ、健康なネット生活を目指して何ができるのか、日々かんがえていきます。SNSをはじめ、ネット上で健康的に意見が言える雰囲気作りに関して、こんなポリシーがあるよ!こんなのどう?という方。ぜひご意見をお寄せください。









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