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自分の世界を肯定する勇気

自分のことは、自分で肯定してやろうぜ。っていう記事を書きます。

時代は勝手に、流れる。
ただ自分は生きているだけなのに。

自分はただの自分なのに、時代が自分に価値をつけたりつけなかったりする。
でも時代って責任はとってくれない。

なんてことを思ったので経験談も交えて深掘っていきます!(なんか入り、エモいなあ。)


ひとり遊びが好きです。いろんな種類のひとり遊びをしてきた。

今から約10年前の25歳当時、福岡市でひとり暮らしをしていたときに「nozokimi」という遊びを思いついた。(ネーミング勝手につけがち)

当時住んでいたのは、アパート。4畳のダイニングルームと6畳ちょっとのリビングの間の仕切りを外して大きな一部屋にしていた。

そのダイニングにスマフォを固定して自分の生活を録画して編集したりしていた時期があった。(今でいうYouTubeの「モーニングルーティン、ナイトルーティン」みたいな)

台所の音が好きだった。癒される。生活音に枯渇していたんだと思う。誰かがそこにいてなにかの作業をしているような安心感。自分で出した生活と音。それを見てさみしさを紛らわせていたのかもしれない。(暗い)


夜ベッドに横たわって、足をバタバタさせながら編集したそれを観て楽しんでいた。自分好きの文字通りわたしのナイトルーティン。

読んでいるあなたには、自分だけの遊び方ってないだろうか。

最初はただの自分だけのために始めたのに、人には欲があるもので。自分だけで満たされていた遊びを、自分以外の他人に見てもらいたくなる。
そしてあわよくばいいね!って言われたいし評価されたくなる。THE 欲。

これは需要があるかも!なんて本気で思い、この動画たちを拡散したくなった。
今となっては「ルーティン動画」というカテゴリもできて、映像作品までもあって文化として成立しているような気もする。
でもそんなものがまだない当時のわたしは思い立ったが、すぐに「いやいや。。アホやと思われる。。」「てかはずいよな。。」と勇気が出ず。
のちにルーティン動画が出てきて「同じこと考えてるひとがいた!」(そりゃおる)と膝を打って嫉妬にかられる未来が待っている。


(そして未来に「常に頭の中では傑作なのだ」という偉人の言葉に出会い、「頭の中にあるんならビービー言わんとさっさと外に出して自分の実力を知れ!そしてさっさと傷つけ!」と聞こえて耳が痛くなって絶望する。)(余談)(でもその通り)

あともうひとつは生活音を録音して、自分の当時やっていた音楽と合わせて遊んでいたこともある。いわゆる「アンビエント」「環境音楽」というジャンルの真似ごと。今はもうすっかりとジャンルとして確立されてきている。

でも当時はロックやパンクの色が強かった人間関係や環境、ライブハウスもそんな色の濃いところに出入りしていたということもあり、まったく知らないジャンルだった。

当時よく経験していたのは、自分のライブの出番の前にハードロックのDJさんが爆音で音楽をかけている。それに合わせてお客さんは頭を縦にふったり、肩と腕がもげんか?!ってくらい踊り狂って楽しんでいた。

かと思うと15分後には、ポローンとピアノとシンセサイザーのシンプルな音が鳴りだし、体操座りしてわたしの音楽を聴いてくれる人たちが同じフロアにいるというなかなかカオスな空間が作り出されていた夜も珍しくなかった。(当時聴いてくれていたひとたちほんとうありがとう)

ピアノの音に、スマフォで録音した生活音を流したとて、ただでさえガヤガヤしているライブハウス。

わたしがピアノを静かに弾いたとて、横のバーカウンターでは短いグラスにテキーラをいれて数人が「チアーズ!!!」と勢いよく乾杯している。チョー環境音だらけ。わたしが録音した生活音なんて爆音に消えていく。

思ったようにライブができずに、当時は本気で悩んでいたが、今となってはその状況、ちょー笑える。ちなみに見た目はロック少女。地べたに座ってロック少女がピアノ弾いてる。自己プロデュースのちぐはぐさが、もはや愛しいし、なんならかっこいい。

でもなんかちがうよな。。と、また迷走して、(飽き性説もあり)のちにアンビエントというジャンルを知り、まあまあな人たちが取り入れてて、いや、やってればよかったやん!!と落胆する。

当時は今の自分よりも自己顕示欲が高くて創作意欲に溢れまくって、プライドだけ謎に高いくせに、他者や時代に合わせてしまうから、自己肯定感は低い。なんかくすぶっていた。

表現したくて、先に行動してるひとをみると嫉妬に狂うそんなたまらない毎日だった。(書いてるだけでもめんどいやつ)

でもその「表現したい」という気持ちは意外とクセモノで、ただ「表現したい」のか「アピールしたい」のかがごっちゃになっていてカテゴライズできていなかった。

「アピールしたい」という思いには、自分以外の「誰か」が必要になってくるからだ。
当時の自分はどちらの気持ちもあるが、後者よりに傾いていたと、今なら思える。だからいつまでも満足できない。他者に、自分の満足の器をいっぱいにしてもらおうとしていたからだ。そりゃずっと満たされない。


自分が自分を満足させつづけてあげることに集中していれば、いい。ただひとこに満足といっても、言葉や名前がついていない種類がまだまだたくさんある。

自分だけでいいから、その「 満足 」 に名前をつけてあげることから始めてみてもいいのかもな。人によっては満足の種類は2種類かもしれないし、100種類以上あるかもしれない。
それも人と比べることはできない。


自分自身の「これが好き」「これがかっこいい」「これが楽しい」という純粋な気持ちを守り続けて、表現し続けるのってとても勇気と根気と忍耐がいる。

まだその遊びや表現に、名前が世の中的についていないと不安になる。

「変なひとと思われるだろうな」「てかなにやってるんだろう」と、自分の感性の中で世界を作っていく行為って実に孤独だった。

孤独だから、つい人の感想に依存してしまう。ひとにいいね!って言われると、それがたったひとりだけの感想でも、世界に許された気持ちになる。(おおげさじゃなくてほんとに。)


でも、次はその感想をまたもらえるように!ということをモチベーションにしたり、ガソリンにしようとすると、また同じ場所に戻ってしまう。続けられなくなる。世界や世の中や、時代を呪おうとする。

月並みだけれど、自分を信じること。自分からの、いいじゃん!最高じゃん!をまず大事に。

過去の自分に、あなたのやろうとしていることは間違ってないよ。だれかのいいね!を待ちすぎないで、やってやってやりつづけたら、世の中が勝手にあなたのやっていることに名前を付けてくれる。

でもその渦中には一生懸命、自分の遊びに夢中になっているあなただけが存在している。それでいいんだよ。そう伝えてあげたい。

そしてこれからの、未来の自分にも。


宇多田ヒカルの歌詞でしめちゃお。

誰にも見せなくても キレイなものはキレイ もう知ってるから
誰にも聞かなくても キレイなものはキレイ もう言ってるから

宇多田ヒカル/PINK BLOOD



でもその満たされずにもがいている姿もまた、人間として美しくてかっこいいんだよな。みっともなくて、愛しいんだよな。

わかったようにまとめてはみたけど、ちなみにまだまだ満たされずにもがいてます。アラフォーになっても。変わらねえ。。
でもそんな自分も、最近は好きです。と思えるようにはなりました。

1行でもまとめられそうな内容ですが、自分の恥ずかしい経験も交えて、エモめ重めの、記事になりました。

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