オルタナティブ教育の進化系なのか、それとも私事性のための道具なのか!(通信制高校から東大や海外大へ? 人気のわけは 朝日新聞6月8日)
通信制高校は、高校の中退者がピークを迎えた1990(123,529名)以降から各地に出来始めた。広域通信制高校の走りである「クラーク記念国際高等学校」が誕生したのが、1992年で、広域通信制高校としては、6校目だ。そして、高校の中退者だが、その後、徐々に減り始め、2002年の教育の自由化で(世間では、ゆとり教育元年と言われているが)、更に大きくカーブを切って、減少する。
そして、2017年には、高校の中退者は5万人を切る。この中退者の減少を裏で支えたのが、広域通信制高校だ。中退者の受け皿になっていったのだ。この広域通信制高校は、既成の教育に対するオルタネイティブ教育として機能したが、記事にあるように、昨今の通信制高校の活況は、果たして、オルタナティブ教育なのか、ただ単に、予備校的な私事性だけを尊重したものなのか、わからなくなってきている。
集団生活にも慣れず、そして、権威主義にも迎合できず、上手く自分自身をコントロールできない子どもたちが、高校を中退して(それも色々な葛藤を抱えながら)、それでも高卒の資格を取ろうと通信制高校を選択した、いわゆる別の道を選んだのに比べて、最近の通信制高校に進学する子どもたちは、ある目的を効率よく達成するために、人間関係の煩雑さを避け、自分の時間を自由に使え、既成の高校よりも利便性が高いことを理由にしているように思える。簡単に言えば、面倒なことをやりたくないから、通信制高校へ行くという風潮だ。
今回の記事で、私が危惧しているのは、次のようなことだ。
高校が、ただ単に社会に出ていく出口としての機能だけになっていくように思えるということだ。学校という機能が、ドンドン縮小していって、自分の目的のためだけにサービスしてくれという子どもや親のニーズに応えるだけの存在になっていくように思えるのだ(私事性にだけ応える存在)。それは、学校がどんどん商売の場になっていくということだ。なぜならば、それは、自分のためになるような内容を教えてくれ、それ以外は、必要ないとお客様がいうことに応えることになっていくからだ。学校は、自分の思い通りにいかないことを経験させることで、大人になる準備をさせるところだ。子どもたちが、集団のルール・社会のルールを経験し、そして、人間関係の葛藤を経験することで、社会の構成メンバーである大人になっていく準備ができる場が、学校なのだ。この機能がなくなってしまうことになる。そんな危惧を私は持っているのだ。
【教育記事から教育を考える】
2021年6月11日(金) VOL.705
作者:中土井鉄信(教育コンサルタント 合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ 代表)