こんな茶番があってもだれも責任を取らない!(英語民間試験、導入断念へ 大学共通テスト、記述式も 朝日新聞 6月23日)
大学入学共通テストの目玉の2つである、記述式問題と民間英語資格試験の導入は、結局、断念するようだ。2021年の大学入学共通テストから2つの目玉問題を導入する努力を文科省はしてきたが、各方面から色々と反対があり、また変な会社が発覚し(一部の企業に利益誘導をする会社のように見られた)、記述式問題や民間英語資格試験を先送りした格好になったことは記憶に新しいところだ。そして、2025年には、どうにかこうにか、文科省は、それらの導入を目指していたらしいが、ここに来て、導入を断念する提言が有識者会議から文科省に出される。
高大接続改革の、この目玉問題を主導してきたのは、教育再生実行会議だが、当初は、委員の大半を企業経営者が占め、この会議を大きく主導をし、様々な改革案を打ち出したわけだが、あまりにも現場感覚の少ない理想論が、どんどん進行していったということの一例だろう。
また、全く教育に専門的知見を持たない企業経営者に日本の教育を提言させた安倍前首相は、あまりにも無責任ではないか。また、この会議の提言を忖度しながら(安倍首相の肝煎りの会議だから反対は出来ないなということで)、進めようとした文科省もあまりにも無責任ではないか。でなければ、今回の記事のようなリスクは、有識者でなくても誰でもが最初から分かっていたはずだ。現に、その当時から危惧の声は上がっていたし、私も上げていた。
教育問題は、誰でも語れる類のものだ。自分の経験値(=知)を基に、なんでも適当なことが言えるのだ。例えば、学校教育の本質を知っていなくても、学校教育については、なんでも言える。そして、それが、正しいように聞こえてしまう場合も多いのだ。例えば、「子どもたちの能力(可能性・学力)を拡大するために学校があるのだ」とか「国のために教育があるのではなく、子どもたちのために教育があるのだ」とか「グローバル社会に勝ち残っていくために、グローバル社会で通用するような能力を子どもたちに付けるために教育があるのだ」とか、実にそれらしいことを言えるのだ。しかし、このような言説は、学校教育の本質を語ってはいない。
学校教育の本質は、子どもたちを一人前の大人にしていくということ、つまり、現在の社会の構成メンバーにしていくことを本質としているのだ。個人の能力を付けるという意味なら、現在の社会に通用するような社会性を身に付けることが第一義なのだ。何も、思考力とか判断力とか表現力を身に付けることを主眼にはしてないのだ。さらに言えば、学校教育は、天才など作れるような制度ではない。天才の出現率は、どの社会も大体同じようなものなのだ。だから、意図的に天才は創れないということだ。また。天才を数多くつくることも出来ない。天才の数は、その社会の人口の規模によるところが大だからだ。ついでに言えば、思考力や判断力も学校教育で全員の子どもが身に付けられるようなものではない。無定形な能力は、学校教育では獲得することが出来ないのだ。そういう機能がもともと学校教育にはないからだ。だから、ヨーロッパでは、古くから家庭教師が付き、個人の特性や性質に合った指導をしているのだ。ちなみに、2000年以上昔から、家庭教師はいた。かの有名なアレキサンダー大王の家庭教師は、哲学者のアリストテレスだ。個人の能力や可能性を引き出すのは、昔から家庭教師の役目だったのだ。
【教育記事から教育を考える】
2021年6月25日(金)VOL.706
作者:中土井鉄信(教育コンサルタント 合資会社マネジメント・ブレイン・アソシエイツ 代表)