時間にリズムがあるのではなく、リズムが時間なのだ

僕は日課(生活のスケジュール)を考えるのが好きだ。……などと書くと、さぞ規則正しい生活をしているのだろうと思われるかもしれないが、これがめちゃくちゃなのである。自分で考えた日課を全然こなせない。

23時に寝たかと思えば、その翌日は深夜2時に寝たりする。6時に起きたその翌日は、10時に起きたりする。だがいずれにせよ、だいたい7時間半くらいで目が覚めるらしい、ということは最近分かってきた。

日課を考えるということは、「自分の身体のリズムを知る」ということであり、もっと言えば「生命のリズムを知る」ということにつながっていると思う。そのリズムは人それぞれ違うのであり、だからこそ自分で研究するしかない。そこが面白いのだろう。

リズムは生命そのものである。時間にリズムがあるのではなく、リズムが時間なのだ。

本川達雄さんが『ゾウの時間 ネズミの時間』の中で言うには、哺乳類はその寿命の長さにかかわらず、だいたい心臓が20億回打つと死ぬらしい。だから、ネズミのように心臓のリズムが早ければ寿命は短くなるし、ゾウのように遅ければ寿命は長くなる。とはいえ、「物理的な寿命が短いといったって、一生を生き切った感覚は、存外ゾウもネズミも変わらないのではないか」と本川さんは言う。

ユクスキュルは『生物から見た世界』の中で、生物ごとに異なる時間を生きていると主張する。人間にとっての18年が、ダニにとっては一瞬のように感じられているかもしれない、と言うのである。そのような生物ごとの世界を、ユクスキュルは「環世界」と呼ぶ。

そしてもっと厳密に言えば、この「環世界」は、人間同士であってもそれぞれ違うはずなのだ。ユクスキュルは、その例として職業ごとの環世界を挙げているが、さらに突き詰めれば、人それぞれに異なる環世界が本当はあるのだろう。

そしてここで重要なのは、この環世界は決して閉じた世界なのではなく、あくまで世界とのつながりの中で成立している、ということである。要するに、「その生物と、世界の全体との関係性のありよう」が、それぞれの環世界を成立させているのである。

だから、ある人が「8時に起きて、24時に寝るのがベストだ!」と思っても、季節によって日の出と日の入りの時間は変わってくる。それに伴い、身体のリズムも変化していくだろう。必然的に、その人が「ベストだ!」と思っていた状態も維持できなくなるはずである。

身体のリズムは地球のリズムと不可分であり、究極的には宇宙のリズムと不可分である。「時計の時間」は絶対的なものではなく、単にそのリズムをカウントしているにすぎない。

僕が日課に興味があるのは、まず第一に機嫌よく生きるためであり、そのためには身体と魂への配慮が欠かせない。それが結果的に仕事のパフォーマンスを向上させるかもしれないし(今のところ全く成果は見られないけれども……)、もっと言えば「どういう仕事をするのか」ということにも関わってくる。いや、そちらのほうがむしろ本質的だろう。

鬱にもいろいろあるけれど、その要因の最たるものは「魂からの苦情」ではないだろうか。それはだいたい身体を通して意識へと伝えられる。日課を考えることは、もしかすると、魂の機嫌を伺うことでもあるのかもしれない。

僕のような意志薄弱な人間は、日課を決めても全然それを守れない。にもかかわらずそれを懲りずに考えるのは、魂に対して「気に掛けてますよ」というメッセージを自分に送っているのかもしれない。そのこと自体に意味があるのかもしれない。

日課を考えることは、一般的に、時計の時間に自分の生活を合わせることだと考えられる。しかしそうではなく、時計の時間をめやすにしながら、自分の生命のリズムを探求すること。それが日課を考えることの本当の意味なのかもしれない。それは自分の生きる時間を、再定義し直す営みとも言えるかもしれない。




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