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逃げるように、思うように。会うように、泣くように。

またまた、散文ともポエムともいえない、謎で素敵さを自称する文字列を並べてみた。

僕は文字が好きで、でも読むことは苦手で。なんだか、飽きてしまう何かが眠っている気がする。

何言ってるのか分からない、その分からなさ具合を許すことが、分からないことから逃げている自分を表しているけど、分かることからも逃げる自分が同時に存在しているはずでもある。

僕は、その分かることから逃げる自分のことが好きみたいで、逃げて何かを思ったその時には、新しい何かに出会っていて。泣きそうになる。

活力と、歓喜と。絶望と、悲壮で。泣きそうになるし、泣いた。


泣きすぎた。

絶望感、器の小ささ感。

それでも、エネルギーは1人で内側から作らなくても、外の人たちに預けて伝播していけば良いって気づけた。

たくさん泣いてたくさん笑う。

主観の”理不尽”を世界中から消す。
いい共同体を作る。

微笑みと痛みを共存させる。
人類を存続させる。

目の前をニコニコしながら生きていたら、マクロの世界も良くなる、夢のような世界観を作る。

”俺”は全ての人類の庇護者であり、全ての人類に庇護される存在者。
”俺”を刺そうとする人をも優しく包み込みたい。包み込む。


王たるもの、弱くなければならない。

王たるもの、不完全性を認めなければならない。

王たるもの、配置し、指示し、時間を管理し、実行する。

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王として振舞い、神として振舞う。

そんな虚像を子供に上書きする。

その上書きは何かから逃げながら、何かを見つける。悲しみに苛まれた時に、更に神は神と思っていた自身の存在を超えると思しき神を見つける。でも超えていると思っていた神は、上書きする前の子どもだった。


『己が擦れたことを笑う人より、繊細であることを諦めない人の方が好きです。やがてなにもかもどうでもよくなる、その一歩手前で、美味しいスープを啜る人が好きです。』

F著『20代で得た知見』

柔らかく、繊細に、包み込むように。

でも太く、アツく、重く、深く、闇のように。

たくさん傷つくから。

そこからどんなに血が溢れても、何も失わないから。

だから、何も諦めない。諦めたくない。諦めるはずもない。


シュルレアリスムみたいに、ただ思いつくがままに、手が動くままに文字を書くみたいなことが重要なのかもな。

脈絡っぽい何かを飛ばして、一見どころか、きちんと読んでも意味不明な何かを作り、それすらも現実と受け入れる姿勢。


みんなが静まり返っているこの時間にこそ、イタイ人としての自分を解放することが出来る。

見栄か何かか、社会化の過程で身体に刻み込まれる何かを隠す必要がなくなる気がする。


共有したいという欲求は何なんだろうか。同じものを共有・承認していると、安心するんだろうか。

誰かのために生きて、自分のために生きて、その何でもないモノのためにも生きて、

ってすると、どうしても共有する何かが出てこざるを得なくて、仲間意識というか、味方意識みたいなものが形成される?

ナショナリズムも宗教も会社のMissionも、一であり全なのかもしれない。


手段の目的化は、手段を仮固定にする意味で一見悪に思える何かだが、手段や行為そのものを楽しんだり、面白がれる点で”美”であるとも言える?


毎日絶望している気がする。

部外者であるという孤独感と、死が近づいているという恐怖感。謎のエネルギーが減衰して、枯渇している感じもある。

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死ぬことすら諦めたくなくなってしまったんだろうな。

もはや何も諦めたくない。

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誇らしそうにこれを言っていることを恥ずべきだが、なぜか恥ずかしげもなく言ってしまうくらいに何かが整っている。

昔は死ぬこと(肉体の喪失)から逆算して考えてたのに、だいぶ変わったな。


人生を単位に物事を考える。

この手の思想、死が暗黙の了解となっている感じが”嫌だ”。

死が唯一絶対の区切りだと思い込んでるのも”嫌だ”。

ゲームとして、もっと短く時間を切り刻める感覚をみんなに覚えてほしい。俺も身に染ませたい。


『他人から学んだだけにすぎない真理は、我々に付着しているだけで、義手義足、入歯や蝋の鼻か、あるいはせいぜい他の肉を利用して整形鼻術がつくった鼻のようなものにすぎない。

が、自分で考えた結果獲得した真理は生きた手足のようなもので、それだけが真に我々のものである。』

ショーペンハウアー著『読書について』

僕は声高らかにショーペンハウアーに反抗したい。自他の境界を明確にして、自分が全てを選べる、考えられる、そんな能動性・自律性を信仰しすぎてはいないか?

僕たちは、どこからが自分なんだ?自分ってなんだ?他人と本当に境界はないの?

分からない、分かるはずもない、これは分かることではなく、分けて決めることである。

でもでもでもでも、

ショーペンハウアーの主張が大好きな僕がいるから、

それに反抗したくなる僕の存在が鮮明になる。

二項対立から逃れたい僕は、その時点で、すでに二項対立に陥っている
だから二項対立を愛しながら、逃げ道と、別の軸を探し続けてみよう。


「思考体力」という言葉を扱う人は、思考する時間とそうでない時間を区分している。

思考とは、するものではなく、しているものである。

思考そのものが自分が自分であることなのかもしれない。

「努力」も「自己研鑽」も同じ。

努力をしている人には、必ず努力していない時間と生き方が存在する。自己研鑽をしている人には、必ず自己研鑽以外の娯楽や”プライベート”が存在する。令和ロマンの漫才でも、アニメでも自己研鑽できる、全てが吸収源になる。

その言葉を口にすることは、その言葉と差異がある世界観を同時に規定する。


微笑み力と人を愛する力が、もっともっと僕の中に染み込めばいい。

子供の自分の比重が大きくなるとき、仮想的な有能感にどうしても浸らないと何かを維持的ないとき。

僕の信じる世界観が、真っ直ぐ聞いてもらえないとき、子供の僕が見下しの原理を発動してしまうとき。

全人類を見下し、全人類を愛し、全人類を褒めて、讃えて、尊敬しよう。

聞いてもらえなくても、見返りがなくても、それでも与えたいと思うし、良くしたいと思うから、やる。

そんな綺麗な自分を肥大化させたいのが、汚い自分を見つめるメタな自分である。


ありえない柔軟性をもった太くて硬い芯を訂正し続ける。

矛盾するようで、どうにか乗り越えたいという意志の力を働かせたい。

しがらみをエネルギーで超える。

人を愛しながら、同時にどうでもいいと思う精神性を植え付けたとき、エネルギーの取引を少なくして、どんな人とでも素直に会話ができる気がする。


言葉にすることは世界を切り取ることで、何かを捨てることだと思ってた。

思ってる。

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でも、言葉にするのが苦手で、意志が見えにくい子達の、言葉にならない何かを保留して、

保留してるんだが、察して救って抱きしめるみたいなことは出来ないんだろうか。

勘違いして、苦しめて、生贄やスケープゴートになってしまう。

逃れられないんだろうか。

岡田斗司夫みたいな一種の諦めとサイコパシーは現実主義的だけど、僕は誰よりも夢見心地で理想主義者だから、

何も諦めたくない。諦めない。

見えてる絶望と理不尽を、再解釈したい。


炎を燃やし続ける。

社会を変えるとか、興味ない。

人を変えるとか、興味ない。

みんなが微笑めれば、それでいい。

微笑むための土台と、摩擦を、上手く炎に変換したい。


言い訳を誰よりもするからこそ、しょーもない免罪符は全て破壊できる。

自分が誰よりも臆病でしょーもなくてダサいからこそ、みんなの臆病さに気付けるはず。


全人類の、行為にも感情にも結果にも責任を持つという気概


頭痛い。喉痛い。死にたくない。

精神と欲望の肥大化に、身体が追いついて来ない。死にそう。

ずっと世界を面白がっていたいし、もっと素敵にしたいというキレイゴトの心が強化されていく。

マクロで抽象的な世界観や、一見形而上学っぽい世界観から、具体の世界に降り立つと悔しさと情けなさを感じる。

プラトンがイデアを見出したくなる気持ち、倫理観も分かる気がする。


個を規定している自分も同時に存在していると気付いた

唯一無二っぽい存在と信じたい大人びた自分もいる

全ての「ありがち」な競争に勝ちたがっている子供の自分もいる

欲望が肥大化しすぎ

個や絶対視してしまう存在そのものに対する懐疑をする余白と、落ち着きと、癒しと、愛が、時に縮小する

その神の視点を強化したい


大丈夫だよ、と子供に言い聞かせ
唯一無二だよ、と大人に言い聞かせ
全であり一であり無でもあるかもしれない、未観測者に愛を叫ぶ


うっすらと嫉妬している全ての人に対して、この中途半端さを言葉にも絵にもせずに、「うっ」という感覚のまま留めておきたい。


最近ずっと怒ってるな。怒ることなんて、もうあんまないと思ってたけど

いわゆる負の感情と世間で認識される、怒り、嫉妬、憎悪…こいつらの根底に眠るのは距離と位置と認識?

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毎日、自分に悪口を言え。

『足らない、出来ない、どうしようもない、誤解している、調子に乗っている、ふざけるな』

信じて疑う、疑って信じる、信じて信じる、疑って疑う。

固定しない、という状態を固定したくない。

でも、自分の思想と知覚を、信じてしまっているし、信じている。

何度逃げても、出会っても、
何を感じても、思っても。

そうして、また泣くらしい。

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