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椅子取りゲームの世界観 | 僕たちは何も知らない

以下は、散文ともポエムともいえない、謎の文字列です。

色々な解釈可能性があると思うので、何かを学ぶ教材というより、何かを感じられる文章として読めると良いと思います。


世界は知らないものに溢れている。

処理できない情報と制御できない何かが常に氾濫している。

僕は、もっと賢くなれればいいのにとも思うけど、それでも今くらいで丁度良い気もする。

どこまで賢くなっても、常に処理しきれない何かが宙に舞っている。


“労働”からの解放と資本主義の再構築を夢見ていた。

でも全ての生産(流通まで)が自動化されて、全ての人類が電極に繋がったとして、そして僕らがやることが恋愛とゲームとスポーツと創作くらいになったとしても、人類を生産維持するための「子供を育てる」っていうプロセスは取り除けない??

そんな疑問が浮かんだ。

ってなると、良い母親父親であらねばみたいな観念には縛られ続けてしまうのだろうか…?その縛りも実は解放したい何かだったりするのか…?

そこまでして自由っぽい何かを手にしたいのはなぜか、自由の刑に処されるだけなのに。規範と権威による固定化が嫌なのか。そうするといつもの、いかに留めておくべきか?を認知能力の側面から考えるしかないのか。

とにかく時間と思考力が足りない。まだ、死にたくない。

いや、親が育てないということも可能なのか…?育てる行為すら、システム化できてしまう…?

そうなった時はいわゆる絆っぽい何かとか、接続されている感、帰属先がある感みたいなものは、いかにして作られるんだろうか?それを世の倫理は”よし”とするか…?


やっぱり、認識の革命こそが、僕達の世界観の根源にありそう。


文面だけ見ると、浅いリベラルみたいだ。

そう見られることと、自分自身で見られるんやろなぁと思ってしまうこと自体が、サピエンスの認知能力の限界を示しているなあ。

労働という言葉の選択が、その認識を想起させるんだろうか。


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右左も、革新保守も、僕らが二項対立だと思い込んでいる全ての事象を、そうではないフレームに、僕らが認識できる形に落とし込んで、笑いたい。

微笑みたい。微笑んでほしい。

二項対立を超えることは出来なくても、別の世界の見え方を複数提供することは出来ないんだろうか。


考えすぎて。脳がはち切れそう。

子供の自分は、体感では自分より賢いと感じたことある女性は存在しないと、高く声高らかに主張する。ダサい。

二次元目の大人の自分は、それはジェンダーバイアスに犯されていて〜とか。それは君が賢いと思える女性に出会えてないだけで〜とか。君の自己評価が高すぎるだけで〜とか言い始める。コイツはアホ。コイツもアホ。

三次元目のメタな大人の自分は、IQの分布を根拠に出し始める子供の自分に反論する。「結果としてその分布になっているだけで、染色体の違い⇒IQ分布の違いではないよね」「乳幼児期〜青年期の教育と社会からの圧が、圧倒的に飛ぶ抜けた女性を育てないだけかもだよね。観測されている人間の能力値は独立変数ではないよね」「そもそも賢いことが凄いことって思い込みは、君の思い込み(信念)であって、なぜ凄くて偉いことか説明できないんじゃない?」とか言ってくる。うるさい。メタに見てる風に、メタのメタを出してくんな。

四次元目の神は、全ては同じで繋がっていて「一」であると言う。

もっと遊べれば良いのに。まじ、うるさいし、どうでもいい。生産を自動化して富の分配も自動化しようよ。

資本主義が加速するだけ、ありもしない些細な違いを生ませようとするんだ。言葉を使うだけ、それだけ違いを生んでしまうんだ。言葉は差異のシステムだから。じゃあ言葉が溶けたらいいかって、それには納得できないな。それは二次元目の自分が強すぎるからかもしれない。こんなふうに階層に分なきゃいけないことがアホ。全部アホ。資本主義は最善で、最悪だ。愛していて、憎んでいる。

言葉にするとは、愚者であると認めること。


『事業会社でキャリアを積むこと、事業責任者を目指すキャリアが優位である』

これはミクロ(個人の最適)で見た時には時に正しいかもしれないが、マクロ(社会的選択)で見ると破壊しなければならない虚構観念だと、現代思想を学ぶ中で再確認できた。

既存の経済資本・象徴資本の優位性に犯された価値体系、モノサシから脱却出来ているわけではない。コンサルだろうが商社だろうがベンチャーで鍛える話だろうが、自分のことしか考えていない気がしてしまう。

それだけ、余裕がない。

21世紀の先進国に蔓延る「世界観」は、個人の意思決定が、社会の存続を可能にする選択になっていないように見えてしまう。

このままだと人類は滅亡してしまう。それで良いが、僕がそれを嫌だと言っている。

勝者を求める椅子取りゲームを、モノサシ上で強いている以上は、その勝負が激化するだけ。

自らが他者と勝負するための準備にリソースを割くのではなく、ただただ、外の世界に(人間社会や小さなコミュニティ、まずは血縁で繋がった家族から)何かを与え続ける、富を生み続けるような生き方を「豊か」で「優位」かのように錯覚しなければ、競争のためにリソースを注ぐ人が大量に生まれ、人類は子孫の再生産よりも自らの優位性を求め、やがて人類は滅亡する。

競争を楽しく、競争をゲームのように、競争を富を生むための程よいブレーキにしなければならない。

資本の有無のグラデーションで、軸を作らない(資本以外の何かを取り出す)か、資本を持たないという一見愚かな行為の正当性を示すか。


死ぬまでに、そして地球と人類が壊れる前に、

競争を肯定し、資本主義を肯定しながら、競争の「ブレーキさ加減」を学術的に実証できないかなあ。

なんせ、権威と「エビデンス」に信念が支配された近現代だから。宗教や共同体の規範とは別の形で、人類の既存の信念を揺るがし、今「客観的事実」と思い込んでいるかもしれない、競争のアクセル面を肯定しつつ、ブレーキ面を説明出来たりしないだろうか。

死なない、ゲームのルールがころころ変わる、期限が短く決まっているSAOを作りたい。

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僕らは、いつでも何でも、与えられる。

なんせ、広く見たら何も持っていないんだから。そして広く見たらたくさん持っているんだから。

いつまで研鑽してるの?早く与え続けようよ。

与え続ける中で、自然と与えられるものも増えていく。

与え続けることで、自然と良い位置で椅子に座れてしまうのが、皮肉な話でもある。


行動vs思考
理性vs感情

これは、二項対立にすらなっていない。

前者を優位に置いてしまう全ての愚者たちは、現代の世界観に犯されているだけの存在者。

一見、優位でないものに価値を見出したい。

そして、第三の項を取り出したとしても、そうでないとしても、全ての保留状態の中途半端性を重要視したい。

僕たちは、何も知らないし、何も理解できない。
説明が出来るだけ。


言葉を使うことは、世界観を示すことであって世界の存在を説明することとは異なる。

この切り取り方の真偽の判定は、言葉を使い続ける以上、出来ない?出来る?わっかんねー。

言葉と記号から抜け出せない?

記号だけでは"世界“を示せない?

てか世界ってなんだ。

もう既に言葉の多義性とか曖昧性によって自分の言葉も説明も意味不明な感じになっている。

この意味不明さ加減を愛し続けたい。

それしか出来ない。だって何も分からないんだから。

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