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人様に偉そうに評価をつけておきながら、人ごときが人ごときに評価をつける傲慢性を語り、評価をつける自分にも付けられる自分にも嫌気がさすけれど、それでも気付いたら僕は評価を下してしまう。

人が人から抜け出せない叫びと痛み・喜びと愛おしさを、
大雑把に、薄めに、そしてしょーもなく記述してみた。


常に”評価“をしてしまう。

常に。自我が。

モノサシを用意してしまう。
モノサシで規定してしまう。

君の傲慢なモノサシを、
僕の傲慢なモノサシと同じように
錯覚させる。

僕の傲慢なモノサシは、
君の傲慢なモノサシとシンクロする。

『キミはこのモノサシのここになるね』
『アナタはあのモノサシのあそこになるね』

ホモサピエンスの分際で、どこから出てきた何とも分からない、
根拠のない、配置をする。

僕は椅子取りゲームをしている錯覚をする。

モノサシはきゅっとまとまる。
好悪を中心に、無自覚に恣意的な何かを投入する。

僕の人知を超えていても、気付かず気付けず瞬間的に勝手に位置づける。
僕は勝手に椅子取りゲームをしなければならないと駆動される。

絶対的に、愚かな人達よ。


言葉の支配。
それでは言い尽くせない、
それを超えるナニカもある。

言葉がモノサシを作り出す。

ビジュいいねも、
優秀だねも、
足速いねも、
ハイTだねも、

全て壊れてしまえと。

全て壊れるを超えて、”消滅”させられないか。

モノサシの意識が取り除けない。

いつも言葉に守られていて、
いつも言葉に犯されている。

言葉を超えないと、モノサシは消えないのかもしれない。

でも、言葉から抜け出すことは出来ない。辛い。
抜け出したら抜け出したできっと辛い。

弱者を競う競争もおこっている。
中途半端さすら誇りはじめる。

モノサシを連続的にするか、
モノサシを無限に飛ばすか。
モノサシをぶち壊すか、
モノサシを分散させるか。

どうにかしたい。


比較優位・位置と構造の原理が働く。
神話と権威の力学が何かを司る。

人が人である限り、
重力が、絶対的と錯覚する空間を作り、
その人がいる”位置”こそが差異を作り、
理解できぬものを説明可能な神話で語り、
距離が遠いものへの”幻想”を抱き、
距離が近いものへの”親近感”を覚えさせる

優位と親近感。
生存と安心。

人から抜け出せない。
もはやこの「しょーもなさ」が愛おしい。美学なのかもしれない。

抜け出すのは不可能と仮置きしよう。
やっぱり、積極的に人と比べていこう。

冷笑するより、しょーもなく愛せよ。


僕は

モノサシが分からない。
モノサシを分かってない。

なぜ存在し、なぜ機能するのか。
なぜは分からないが、ある気がするというのは分かる気がする。

ある気がするモノサシを、
どこからか取り出し、
どこからか配置する。

位置と重力
認知と好悪が、
僕達の評価の傲慢性。

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