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社会人の大学院進学について② なぜ?社会人で大学院進学を決意したのか?

なぜ?社会人で大学院に進学したのか?
大学院の修士課程には、2010年の10月の秋入学でした。診療放射線技師として総合病院で仕事をしていた15年目の年です。

なぜこのタイミングなのか?


大学院に進学した3つの理由

様々な理由がちょうど重なってこのタイミングになったのですが、しいていえば大きく3つ。

<一つ目>

一つ目は、診療放射線技師として検査を行う際に、音声指示が聞こえない方々の検査は非常に難しく、時間もかかるのを実感したからです。
検査の指示が「聞こえる」のと「伝わる」のは違います。X線検査は、音声による一方向のコミュニケーションです。音声が聞こえる人でさえ正しく伝わらないことがあり、診療放射線技師にとっては当たり前の言葉でも、被検者にとっては知らない言葉だったり、緊張していたりして耳に入らないこともあります。診療放射線技師として様々な検査に従事する中でそういったことを実感しました。

<二つ目>

二つ目は、表示媒体などハードウエアの進化です。
卒業研究の頃はブラウン管だったテレビが薄型軽量の液晶パネルになり、「プレイステーションポータブル(PSP)」「iPhone」「iPad」など、大きな液晶画面でありながら、コンパクトで持ち運べる電子機器が次々と流通するようになっていました。メガネ型のモニター(ヘッドマウントディスプレイ)も市販され始め、「今の時代であれば、卒業研究を実用化出来るのではないか」「X線検査領域だけでもバリアフリー化したい」との思いがますます強くなりました。

<三つ目>

三つ目は、「製品化してくれる会社に話を聞いてもらえる人物=大学院で研究=博士などの学位」が必要と思ったからです。
私は医療短大卒なので準学士ですから、大学院への入学資格である学士を持っていません。そうなることは、医療短大に在学中にわかっていました。なぜなら、私の2つ下の学年から医学部保健学科となり4年制に変わったからです。「在学期間が3年と4年は、たった1年の違いなのに、何とかならないのか・・・」と在学中から考えていたところ、不足単位を放送大学などで履修して学位授与機構に申請すれば学士を得ることが出来ることを知りました。ですから、医療短大卒業後に働きながら放送大学で少しずつ不足単位を取得して2009年にようやく学位授与機構から学士を得たので、大学院への受験資格はクリアしていました。
そして、学費を抑えるには国立の大学院しか金銭的に無理です。しかも、仕事しながら通える距離にある大学院を探したところ、ちょうど近くでしかも福祉工学を専門とする先生がいる大学院がありました。その頃は、大学院でも社会人学生の受け入れを積極的に初めていたこともあり、4月だけではなく10月の秋入学も可能となっていたからです。その先生の指導があったからこそ、実用化に必要となる研究を行うことができました。先生をはじめ、職場の同僚、家族などの理解と協力があったからこそ、大学院に進学することができました。本当に心から感謝しています。

聴覚障害など福祉工学に関わる理由

卒業研究

診療放射線技師になる前の医療短大生時代の卒業研究(1993年から行い1995年2月に研究発表)が発端です。ゼミ室に新しいパソコン『Power Macintosh 8100/80AV』が導入されました。最新のパソコンで処理能力が高いだけではなく、「パソコンの画面をテレビに出力出来る」端子が付いているのが特徴でした。

「パソコンの画面をテレビに出力出来る」これを「何かに使えないかなぁ」と考えた時に、ふと高校生の時に十二指腸潰瘍で胃部X線検査を受診した時のことを思い出しました。
隣りの部屋から「右向いて」「息を止めて」など様々な指示があり、その都度「指示通りに動けているのか」と病気の不安に加えて検査の不安も抱えながら指示に従って夢中で動いた事を。
そこで、「耳が不自由な方々がバリウム検査を受けるのは、指示が聞こえないから検査を受ける側も検査をする側も大変だろうなぁ」。
「指示内容はある程度決まってそう」だから、「新しく導入されたパソコンを操作室に、撮影室内にパソコンの画像を映すテレビ」を置き、その「テレビに指示内容を文字と手話で表示する仕組みがあれば、聴覚障害者の方々が検査を受けるのに役立つ」のではないかと考えました。

そう考えた私は、ゼミの先生に相談したところ「やってみろ!」と言っていただきました。しかも、システム構築に必要となるソフトウエアも導入してくれました。
病院実習前でしたが胃部X線検査を実際に行っている様子を大学病院に見学させてもらったり、指示の内容の手話通訳のために聴覚障害者協会に訪問して協力をお願いしたり、色んな方々のご協力をいただき形にしていきました。

突然、左耳が聞こえなくなった

ちょうどそのころ、私自身20歳の頃に左耳が聞こえなくなりました(感音性難聴:85dB)。 正確には、中学3年生の頃から20歳まで年に数回、左耳が聞こえなくなって、数時間か数日経つと再び聞こえるようになることを繰り返していました。20歳の頃に左耳が聞こえなくなった時も、数日経てば聞こえるようになると思っていたら、1ヶ月経ち、2ヶ月経っても聞こえるようにならないので病院受診したのですが手遅れでした。
片方時々聞こえなくなることは経験していたので、聞こえない不便さよりも、「左耳が聞こえないまま」と診断されたことのショックが大きかったことを今でも覚えています。
その時の私は、「聞こえないまま」という事実を受容できませんでした。(今から数年前にようやく受容できたので私の場合は受容出来るまで20年以上かかりました)

福祉工学

「福祉工学」とは、失われたり衰えたりした感覚、脳の機能、手足の運動を機械で補助・代行する工学分野のことです。大学院での研究を再開して知ったのが、「聴覚障害のほとんどが後天性」ということ。また、聴覚障害者の方々が困っている施設の第1位が病院だということも知りました。私は、片側だけの聴力という不自由さを実感するとともに、両方聞こえない方々のご苦労もリアルに想像できるようになりました。また、私の頭の中で常に「キーン」という耳鳴りが聞こえ続けるため難聴があることを常に自覚し続けるとともに、「今聞こえている右耳も難聴になるのでは」という不安も抱え続けていたからこそ、この研究に取り組み続けて実用化したいという想いを持ち続けることにも繋がったのかもしれません。

そうして、大学院に進学したことで、今があります。
進学した時期は、様々な要素が重なったこともありますが、振り返ると30代で良かったと思います。
なぜ?30代で良かったのか?というのは、また今度、書きたいと思います。

私の経験が、少しでもお役に立てれば幸いです~。


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私が、地方創生にも取り組んでいるのは、生まれ故郷が「九州における消滅可能性都市1位」ということを知ったからです。

また、少子高齢化と人口減少が進む中、「地方は、未来の日本の縮図であり、地方が変われば日本全体が変わる!」と考えています。国境離島で生まれ育ち、大阪、福岡、東京と多様な環境で経験を積み、医療、ハードウエア、ソフトウエアといった多分野での経験等を活かしたプロボノとして取組んでおります。もしよろしければ、お読みいただくことで活動へのご支援をどうぞよろしくお願いいたします。

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