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#200 記念すべき200回目の投稿

おはようございます!Manamiです。

いや~きました!
200回目の投稿。
こんなに続くと思ってなかった。
200回も投稿したのか!?疑問に思うくらい。
常に1記事、1記事真剣に書いていると200回も投稿したとは思えない。

今回、何を書こうかと考えていました。
私の過去を書いていきたいと思います。
ぜひ、お付き合いください。
では、、、

私は1986年8月24日生まれ 結婚するまで埼玉県の実家で暮らしていました。
現在は38歳。夫と小学2年生の娘と11月で3歳になる息子、熱帯魚、オオクワガタ虫(オスメス)、カブト虫の幼虫4匹と神奈川県にあるUR団地で暮らしています。

小さい頃の記憶は、ほとんど覚えていないのですが、外で活発に遊ぶ女の子。
小学校の成績は、体育がいつも良い!
その他の強化は、平均点ギリギリのところにいました。
勉強が出来なくて、年子の弟は勉強ができて、運動が苦手なタイプだったので、勉強ができる弟といつも比べられていました。
当時は「運動できるバカ」なんて言われたものです。
運動バカなんて言われていたもんだから、
恥ずかしかった。
運動が出来ても自分の自信にはならなかった。
特に母は、勉強ができる弟をすんごく、可愛がっていたので、
何で私ばかり怒られているんだろうって、毎日のように思っていました。

小学校3年生から高校3年生まで、バスケットボールをやっていました。
始めたきっかけは、弟がポッチャリ体系で、母が運動できるクラブチームがないかと探していたときに、見つけたのが、ミニバスケットボールチームでした。
私も一緒にやってみたいと思って、姉弟で習うことになりました。
運動神経のいい私は、練習するたびにどんどん上手くなっていき、
気付けば小学4年生で、高学年のお姉さんと一緒に練習したり試合をする機会が増えました。
そこから、小、中、高と常にレギュラー。地区選抜に選ばれて、バスケットボールでは、いい機会ばかりでした。
このころから、教わったことには忠実で。
監督コーチに怒られるのが怖くて、言われた通りにキッチリやることには長けてましたね。

こうやって忠実なのも、母がとっても厳しい人だったので、、、毒親に近い。
少しでも勘に触れることをしてしまうと、お風呂で怒られてしまうんです。
説教部屋は、お風呂場。
お風呂が怖かったな。
お風呂から母が名前を呼ぶんです。
呼ばれたらすぐにお風呂に入らなくてはいけなくて。
脱衣所で何を怒られるんだろうって、びくびくしていた。
お風呂がリラックスできる場所だなんて、大人になるまで知らなかった。

あの時、何で怒られていたのか、覚えていないんだけど、
「弟ではなくて、私ばっかり。」
「テストの点数もよくないし」
とにかく、怒られた反論できずにそのまま聞く、
洋服、髪型、習い事、進路などなど、全て母が決めていました。言われた通りのレールを歩くのが当たり前だと思ってましたね。

もう怒られるのが本当にイヤだったから、
怒られないために、どうするか。そればっかり考えていた。
それが私の生きる道なのかと、、、一人泣き崩れていた日もあった。
一人でお部屋にいることが心地よかった。
誰にも何も言われないことが、本当に幸せだった。
優しさを求めていたな~。
優しさに包まれたかった。

早く実家を出たいと願ってばかりいた。
一人暮らしは出来ないし。
結局28歳まで実家暮らし。
自分で決めることを諦めて、我慢するという道を選択し、親の目を気にしてズルズルと。

人生で初めてと言ってもいいくらいの決断は、結婚するということ。
結婚を決めて、実家を出る喜びをすんごい感じてた。ウキウキワクワクが止まらなかった。
家電を決めるのに、半日以上使って選んでいたら、帰るのが遅くなり、すんごい怒られた。
なんで…
言い返しても、なぜか涙が出て来ちゃって、言い返せない。私の弱いところ。

なんやかんやで家を出る日。
私を玄関で泣きながら見送ってくれた母。今でも鮮明に覚えている。
母が私のために、泣いてくれるんだって。
そんなこと思いもしなかったから、つられて泣いてしまった。
こんな私でも、泣いてくれるんだって。
なんか、嬉しかった。

両親と離れて、自分自身の変化や気づきがあったので、また別で書きますね。

私の過去をオープンにしてみました。
思い出すと泣けてくることがあるんだけど、
私を今一度理解するためにも必要な作業。

ここまで読んでくださったあなたに、ありがとう。私変わっていくからね。

それではまた明日〜


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