MARUYOSHIKOSAKA STORY~百色-hyakushiki-ブランドの誕生~
「“漆”と“ガラス”を組み合わせれば、
今まで見たことのない、美しく強い製品になる」
美しい森と豊かな水に恵まれた旧中山道沿いの小さな町・木曽平沢。この地に、伝統工芸「木曽漆器」を生業とし、「漆塗りの家具づくり」を中心に扱う職人工房として、1945年丸嘉小坂漆器店が創業された。そして創業から約50年後、この老舗職人工房にて木曽漆器づくりの技術による新たな挑戦が始まったのである。
それが、「硝子」に「漆」を塗るという職人技のつないだ新たな風、「漆硝子」の技術開発であった。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
そもそも「漆器」と聞くと、「伝統的なもの」「木地に漆を塗った器」「漆黒や朱色の艶めいたお椀」などの印象を持つ方が多いだろう。気品高い印象も合わさって、手入れや使用用途などに慎重になるがゆえ、敬遠されつつあるのも実態である。ただ、その懸念点に待ったをかけたのが丸嘉小坂漆器店である。硝子製品の先駆けとなる「すいとうよ」は遡ること約25年ほど前、先代の革新的な感性のもと、長野県工業試験場との共同開発により生み出された。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
「漆塗りなのに高い汎用性を持つ」
通常、漆器は内側も漆で塗るものが多く、木などやさしい素材のものしか使用が難しいが、外側のみに漆を塗り、内側はガラス面とすることで、金属製のカトラリーも使用でき、和食器としても洋食器としても利用できるようになった。漆器を楽しむ場を自由な発想で広げたのが、この技術の大きな特長である。
この斬新な技術は、物珍しさゆえに開発初期の段階から注目されるようになった。長野県内の百貨店や一部の小売店、さらには塩尻市のワイナリーフェスタでの試飲用グラスに使われるなど、販路は瞬く間に広がっていったのである。しかし、注目もそう長くは続かなかった。まるで打ち上げ花火のようで、当時の売上シェアも、家具製品の8割を上回ることはなく、漆硝子は1割程度に留まったままだった。
「百色-hyakushiki-」ブランドの誕生
©有限会社丸嘉小坂漆器店
現代表の小坂玲央さんは、新卒時代の医療関係の事務職を退職し、継業するため3年間の修行期間を経て、2009年に丸嘉小坂漆器店へ戻ってきた。
「元々は、家業を継ぐつもりは全くなかったんです。ただ、会社員として働きはじめ、客観的に“漆器” “ものづくり”という親の仕事を見るようになってから、段々と惹かれていくようになりました。」
創業当時の丸嘉小坂漆器店は「下地屋」だった。
一般的に、漆器業というのは分業制で、木地→下地→塗り→加飾とそれぞれの工程において職人さんが存在し、各々が専門分野ごとに活躍していた。そして「下地屋」として営んできた丸嘉小坂漆器店も、「下地」と「塗り」の技術のみ先代の時代から持ち合わせていた。そこに、「木工」の知識を有する玲央さんが入り、奥様・智恵さんが「加飾」の技術を習得したことで、新たなかけ合わせが生まれ、丸嘉小坂漆器店は「一貫制作」のできる職人工房へと変化を遂げていったのである。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
ただ、玲央さんが戻ってきた当時の丸嘉小坂漆器店の製造体制は、決して“良い”といえる状態ではなかった。「一貫制作」のできる体制とはなったものの、まだまだ売上の大半を占めていた家具の販売に注力することに必死だった。百貨店の催事に出回っては商品を出展し、購入へと繋げていくような販売方法が主であったため、催事期間中は数週間に渡り職人としての手も止まってしまっていた。自社製作・自社販売であったがゆえに、とても健全といえる状態ではなかったのである。
そこで、玲央さんは考えをめぐらせた。
「卸販売のできるような仕組みにシフトしていかなくてはいけないと思うようになり、売上の下がっていた漆硝子のシェアを広げることを視野に入れるようになりました。」
「父の生み出した技術があって、『すいとうよ』というブランドがある。ある程度組立ってはいたものの旨く売れなかった。では、売るためにはどうしたら良いかと考えたとき、『新しいデザインを生み出すこと』そして『新しいブランドを立ち上げること』だったんです」
最初に取り組んだのは2010年。それから3年ほどかけて「百色-hyakushiki-」ブランドが立ち上がったのである。
人が人を呼ぶご縁の広がり
「デザイナーさんとの出会いは、父が2010年にシンガポールでの展示会へ出展した際、商社の方と繋がったのが事のはじまりでした。その商社の方のお知り合いだったんですね。しかも、出店当日に出会ったのではなく、後日飲みの席でたまたま出会ったそうなんです。」
新たなブランドを立ち上げようと意を決した時、真っ先に思い浮かんだのが、そのデザイナーさんだったという。
デザイナーさんの名前は、綾利洋さん。
海外で幅広くデザイナー活動をされ、日本に戻ってきて独立をされている。
元々は医療機器などのデザインを多くされていたものの、日本へ戻ってきてからは、工芸分野への実績も数多く残されている。
そして、立ち上げ時には綾さんの他にもう一方、日本大学芸術学部・准教授の存在も大きな支えとなっていた。この方との出会いは、漆硝子の技術開発において長野県工業試験場と共同開発したときの繋がりが、良きご縁を運んでくれた。喜ばしいめぐり合わせが確かな“手ごたえ”にもなっていき、2013年に「百色―hyakushiki―」と名付けられたブランドが誕生したのである。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
「百色―hyakushiki―」の特長は、漆硝子の技術はもちろんのこと、柄を多用した色味の豊かさと個性あふれるデザインがなにより人目をひく。万華鏡の別名「百色眼鏡」から名付けられたこの商品は、涼やかで透き通るような硝子の煌めきと漆の質感が絶妙に相まって、華やかさと落ち着きを兼ね備えた日本の美意識を体現したような印象も受ける。
中でも、代表的な商品は「蕾」シリーズ。
1本1本手書きにより描かれる色鮮やかで躍動的な曲線美からは、まるで繊細優美な花火を連想させるかのように、さりげなく美の奥ゆかしさを表現したような逸品となっている。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
「伝統を現代の文脈に合わせより進化させたもの」
このようにして、「百色―hyakushiki―」ブランドは、先代の漆硝子という革新的な感性を、より研ぎ澄ましたものとして昇華させていったのである。
日本から、海外へ
2014年1月には、東京・伝統工芸青山スクエアにて初の展示会兼単独発表会を行った。ここでまたひとつご縁が生まれたのである。初めてかつ小規模な展示会であったものの、参加のお客様の中に店舗バイヤーの方が唯一いらして、その方は東京ミッドタウンに店舗を構えていた。初対面でありながら、互いに直感で引き寄せられるものを感じ、この時はじめて商談が成立したのである。
ただ、立上げ初年度の売上は、100万にも届かないほど“鳴かず飛ばず”だった。ところが2014年11月、初めて大規模展示会への出展を決めたことが、以降の可能性を大きく広げるきっかけとなっていった。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
それが、インテリアライフスタイルリビングと呼ばれる展示会である。この時、漆硝子の技術は目新しいものとして注目され、NHKワールドへの特集、さらには民放テレビ局への出演など、出展を試みたことがきっかけで初めてメディアで発信されたのである。
売上も2015年には前年の10倍にまで右肩上がり、さらに2016年には、丸嘉小坂漆器店の売上の要であった「漆塗りの家具」のシェアを逆転し、「漆硝子」のシェアが7割近くを占めるなど、急速に成長を遂げていったのである。
©有限会社丸嘉小坂漆器店
さらに、2018年にインテリアのパリコレと呼ばれる「MAISON&OBJET(メゾン・エ・オブジェ)」への自社単独出展を試みたことは、「漆硝子」の技術を、そして木曽漆器という伝統工芸を、国内のみならず海外にも広く認知してもらえる好機となった。
ブランド展開を進めていくにあたり、毎年必ず国内の大規模展示会には出展をしていたという玲央さん。そして、2018年からは毎年、前述の「MAISON&OBJET(メゾン・エ・オブジェ)」の出展も挑戦し続けている。積み重ねてきた努力と実績が徐々に評価され、現在では国内全国30店舗以上での取り扱い、そして海外では三ツ星レストランでの取り扱いも増えるなど、日本のみならず世界においても注目を集めている。
このようにして丸嘉小坂漆器店は、伝統工芸を国内外問わず次世代へ繋げ伝えるべく、伝統と新しいデザインを融合した漆器づくりに日々勤しんでは、「見極め」の出会いを大事とし、漆硝子の価値を大切に守り続けている。
こだわり続けた「表現」への追求
「今まで成功してきたのは、本当に良い出会いに恵まれてきたのは一番だと思っています。」
そう言葉にした玲央さん。ただ、決して巡り合わせに「身を任せて」いたばかりではない。年毎に並々ならぬ苦労と試行錯誤を積み重ねての総合的な結果が功を奏してきたのだ。そもそも、自社で「一貫制作」を行うということ自体、工程の一つ一つに根気強さと細やかな配慮の要する仕事であり、かつ多大な労力を伴うにも関わらず、さらなる販路開拓も同時進行で進めていくことは並大抵のことではない。
「新商品の開発も毎年繰り返してきましたし、細かいことでいうと、取引先やお客様へ魅せる写真だったりカタログ製作であったり、一つ一つが手探りであったものの、年々改良を重ね続けてきました。私は商品開発やデザインに関しては素人であるものの、“職人”としてできることはなにか。そこは常に握りしめていた感じはあります」
その言葉からは、玲央さんの職人堅気の気質が垣間見えるような感じがした。
続けて、玲央さんはこう語った。
「私自身、元々は会社員でしたし、商売とは無縁のような畑からきたのもあったので、何もかもが手探りな感覚ではあったんです。ただ、私の中でこれだけは大切にしていたいという思いはしっかり持ち続けていました。それが、デザインを製品に落とし込むところの見極めですね。」
©有限会社丸嘉小坂漆器店
「デザインを生み出すことは、ものすごく難しいと思うんです。とは言え、デザイナーさん任せにすれば良いというわけではないと、私は思っています。最終的な良し悪しは、きちんとチームで判断を下すということ。自分たちがしっかりと売っていける自信の持てる商品でなくては意味がない。私はデザインはできないですが、デザイナーさんに組み立ててもらったものをしっかり咀嚼して、自分たちの商品へどう落とし込んでいくか、表現をしていくのか。都度変化に対する決断には、きちんと責任をもって取り組んできました。」
ひとつの出会いからまた新たな出会いが生まれ、一瞬一瞬の「煌めき」を「価値あるもの」として捉えていたこと。そしてそれらを、如何様にして表現するにかけ合わせていくのか。「表層的ではない美」を常に追い求めてきたこと。そのようにして、磨き上げられた小さなかけらが組み合わさって機能し、思いがけない美しい「模様」となる。
丸嘉小坂漆器店の歩みそのものが、まさに「百色眼鏡(万華鏡)」を意味しているのかもしれません。
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