
読書のための読書
高校時代、体育の授業で1500m走なるものがあった。
自分を含めた生徒たちは、その予告がされるや否や、悲鳴にも似た「えーーー!」という叫び声で精一杯の拒否反応を示したものだ。
だが、どれだけ騒いでもその日はやって来る。
体育は好きだけど、1500m走となると一気にテンションが下がる。
いざ授業が始まると、体育教師はウォーミングアップとしてグラウンドを3周走れと言った。
「えーーー!」と、またしても抵抗という名の大合唱。
これから嫌でも走るのだ。タイムを測定されるのだ。少しでも体力を温存しておきたい。幼い自分らはそう思っていた。
なかには、「一緒にゆっくり走ろう」と言い合う者もいた。
今ならウォーミングアップの重要さがわかる。
「わかる」と「嫌だ」は、今でも別の気持ちとしてあるけれど……。
日常にはウォーミングアップが必要なシーンがいくつもある。
朝起きるときからそれは始まっている。
目覚ましが鳴ってもすぐには起きない。スヌーズ機能でようやく起きる――これも一種のウォーミングアップと捉えていいだろう。
朝シャワーを浴びるとき、特にこの時季は浴室も寒いから、お湯をいきなり頭からかけることはしない。足元から少しずつシャワーをあてていく。
起床のための起床。
シャワーのためのシャワー。
そんなところだ。
ちなみに僕には、読書のための読書というものもある。
小説を読む前には必ず軽めのエッセイを読む。
現在読んでいるのは森博嗣さんの「つむじ風のスープ」だ。
見開き1ページで読書脳を温める。軽くアップが済んだら、別の本へ移行。そして頭がだいぶほぐれてきたら、いよいよ小説の世界へ。
すると小説を読むという行為の波にすうっと乗れる。心地がよい。
これも一種のウォーミングアップだ。
エッセイを読まずに小説を読もうとすると、頭がガチガチの肩こりなみに凝り固まっているので、なかなか物語に入っていけないのだ。
昨日は体調がいまいちだったこともあり、珍しく一日家に閉じこもっていた。
でも不調なときほど読書というものは思いがけず楽しくて、読む量も増すし、内容もどんどん自分に吸収されていく。
Spotifyで「読書」と検索すると、「静かに読書に集中したい時のBGM」など、たくさんのプレイリストが存在していて、適当なものをスマホからスピーカーに飛ばしてずっと部屋で流していた。それも読書が捗った理由かもしれない。
島田潤一郎さんの「長い読書」がまた昨日の気分にとてもマッチしていた。
誰かと話しているわけではないのに、あたかも友達が自分のそばにいてくれて、「そうか、お前もいろいろ大変だな」と声をかけられた錯覚に陥る。
部屋にうっすらと流れるピアノの音。仲のいい友達みたいに寄り添ってくれる本。
それは、1500m走のときに「一緒にゆっくり走ろう」と言い合う友達みたいな関係だった。
ウォーミングアップのためにグラウンドを3周走るのは、今でも考えただけで嫌だけど、日常生活では何をやるにしても軽いウォーミングアップは必要だろう。
軽く伸びをするだけでもいいし、「よし」と声を出すだけでもいい。
一気にジャンプすると怪我をするかもしれない。だから飛ぶ前には飛ぶイメージをするのだ。あるいは、そもそも〝無理に飛ぶこともないのかもしれない〟。そういうことをウォーミングアップのときに決めるのもいい。それもウォーミングアップの役割の一つだろう。
あとはウォーミングアップを意識しすぎるあまり、ウォーミングアップのためのウォーミングアップをするということのないように気をつけるだけだ。
ウォーミングアップのためのウォーミングアップのためのウォーミングアップのためのウォーミングアップ……これじゃちっとも進みやしないぜ。ご注意を。