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ユヌ・ボン・ニュイ・トロピカル

とにかく書いてみる。これは外山滋比古氏が『思考の整理学』で授けている重要なアドバイスの1つだ。さて、今年もすでに8月を迎えている。


1. 大学院で

今年度の初めにその本を読み、自分を鼓舞して修士論文を書いてきた。前の主任指導教官は放任主義すぎて何の助けにもならず、しまいにはその指導の役目を降りると急にメールをよこすので、季節柄、とご丁寧に言われても、私には少しも穏やかではない今年の春の様相となった。実際、女性史専門のその教授はいつも鮮やかな色のストールを巻き、かなり年の離れた学生にも敬語で話す、とても品のある方ではあった。
しかし、代わりに指導を引き受けてくれた教授は、前任者よりもずっと若くそして慈悲深い方で、研究テーマに寄り添って相談に乗ってくれた。彼女の論文指導を受けてそれからは順調に修論を書き進めてこられただけでなく、学部生のアカデミック・サポートで仕事をいただき、そこで院生仲間にまで出会うことができた。精神衛生上これはとてつもない正の効果があったのは言うまでもない。大学院生は常に孤独との闘いである。

2. 渋谷で

その研究内容はいずれ修論が出来上がった際に報告するとして、この場ではアカデミックな場から離れてものを書くとしたい。
最近あったことを思い返すと、そのほとんどが渋谷でのことである。前から好きだったmei eharaの美声を初めて生で聴けたのはゆうらん船のWWWでの自主企画"Summer Shade"でのことだ。良い演奏会であった。

mei ehara
ゆうらん船(WWWにて筆者撮影)

それからもともと知り合いで、フランス留学中にパリでも会っていた友人に会ったのも渋谷のスタバでのことである。ネイティブが相手だと外国語での会話が比較的円滑に行われることがあるように、自分の語学力が話し相手に左右される、という説がある。私とその友人の場合、お互いがフランス語を上級とされるレベルで話せることがきっとその理由に違いないが、自分でも話しながら驚くほど、日本語にしては早口で会話していた。この種の現象が外国語ではなく日本語を話しながら起きる、というのは未曾有な経験であり不思議な感覚を覚えた。
それはさておき、彼と久しぶりに再会してお互いの近況報告と将来について語る、という若者らしい時間を過ごせたのは素晴らしいことではあったが、それに加えて重要だったのは、先月までパリにいると聞いて彼に頼んでいた向こうの学術書3冊を受け取れたことだ。この3冊はとても大きい。なぜなら私の手元にあった参考文献では情報が尽きていており、資料不足でちょうど研究が停滞していたからである。これで何とか今年の夏休み中の研究生活は充実しそうだ。「受験は夏が勝負」ならぬ「修論は夏が勝負」である。

3. フランスの留学先で

しかし彼に会うとやはりフランス留学時代のことを思い出す。コロナ禍での留学、それから大学院での留学というイレギュラーな要素が交差しており、簡単なものではなかった。自分が強く望んでいたのではあるのだが、同期が就活を終えて学部を卒業していくなかで、私は留学生という、いわばその先何年もそこに自分の将来を見出すわけではない、期限付きの自由を享受してパリでの海外生活と国際交流を楽しんでいるということに、現地での生活に慣れてきた頃にある日気づいた。それでしばらくは後ろめたさを感じずにはいられず、思いつめた当時の自分は日記にこう書いている。

思えば海外が好きというだけでずいぶんと大学生活を走ってきた。いや、歩いていただけなのかもしれない。[…]実は研究に興味のない人間が大学院まで来てしまった。この留学に意味をもたらすにはやはり今後の過ごし方が肝心である。[…]目標を見つけるところから始めなければならない。それも納得感のあるものでなければならない。[…]ここで一念発起しない限りまた大きな災難に遭うだろう。それも自分の怠惰によって。

フランス留学中の日記より中略して引用

それに今でも痛烈に覚えているのは新学期の初週でのことである。その週の火曜日の朝8:30の講義に間に合うように早起きして身支度し、緊張しながら電車を乗り継ぎ、大学に着く。決済機能の付いた学生証をかざして自販機で紙カップのコーヒーを求める学生たちの列を横目に通り過ぎ、履修を決めた講義室に向かう。院の授業ということもあり、最終的に教室に集まったのはせいぜい10名程度である。学生がひとまずそろい、遅れて教授が到着するといよいよ授業の始まり、留学生活の始まりだ。しかし開始して数分ですぐに痛感する。教授の話すスピードが想定以上に速い。速すぎて追いつけない。この授業の最中、ふと「これは大変なところに来てしまった」と思ったのは今でも忘れられない苦い思い出だ。
ただし後日談として、のちにイタリア人の留学生たちと仲良くなるにつれてその教授がイタリア風の名前であることに気づき、実際にイタリア系移民であること、またフランス語の発音もかなりきついイタリア訛りであることが徐々にわかった。それに講義は論文を読み上げているに変わりないもので、細かいがオンライン上の学生用のプラットフォームに授業の参考資料などをアップロードするのも遅かった。他の講義との比較ができる今なら、最初に経験したこの授業が他よりも難易度の高いものであったといえる。幸運にも隣の席のクラスメイトに話しかけると仲良くなり、以後懇意にしてもらってノートを共有してもらった。学生ストの日も朝から講義に出席し、最終日の筆記試験も合格した。こうやってこの授業の単位をきちんと取得したことは事実として明記させていただきたい。しかし大変であった。
しかし「国境・都市・移民」と題された講義もやはり当事者である研究者に担われていた。これは、現代において複雑に絡み合った性差別を解き明かすジェンダー研究が女性研究者らによる主導で行われている、と例を挙げればそれが意味するところをご理解いただけるだろうか。

3. 下高井戸で

思わず留学中の負の感情を吐露することになってしまったが、しかしながら私は留学したことを少しも後悔していない。当時の日記のように自己嫌悪に陥る瞬間があっても、それを吹き飛ばしてくれる親しい友達に出会えたのはこの上ない幸せだと今でも感じている。いくつものかけがえのない思い出ができた。まだパリにいた当時から考えていたことだが、このフランス留学は私にとって生涯をかけて懐かしむであろう記憶の対象であり、美しくもありもうあの日々には戻れないという意味で儚くもある思い出になった。

パリ、アルスナル港公園で、親友のLukasと

このようなパリでの思い出の感傷に浸るには現代のパリを舞台とした映画を鑑賞するのがよい。安直だがそう考えた私は、ミア・ハンセン=ラヴ監督の「それでも私は生きていく」を東京の単館好きには有名な下高井戸シネマに観に行ってきた。フランスの大女優レア・セドゥ(Léa Seydoux)が演じる主人公サンドラが娘として、母として、女として懸命に生きようとする様を描いた物語であり、主人公らの心の機微の繊細な描写に重きを置いた作風は自分好みの佳作であった。それに何気ないパリの街並みが画面に映るだけでパリでの何気ない日常の記憶が蘇ってきて、懐かしい気持ちになれた。また私も現地のフランス人の友達と行ったことがある、パリのオペラ地区にありおそらくパリで最も有名な日本料理店"Kintaro"が不意に作中に登場して私の記憶が大いに刺激された。

« Un Beau Matin » (2022=2023)

余談だが、この作品のフランス語の原題は "Un Beau Matin" で、直訳すれば「ある美しい朝に」である。だから今回はそれにあやかり記事のタイトルを日本語訳で「ある美しい熱帯夜に」を意味する"Une Bonne Nuit Tropicale"のカタカナ表記にした。「夜」ではなく「熱帯夜」としたのは、うだるような最近の猛暑ぶりを反映させたかったからであり、この記事を書いている今がまさに熱帯夜であるからだ。しかし最近は暑すぎやしないだろうか。

4. 自宅で

最後に小説の話をすると、これもまたフランスのものなのだが、最近読んで面白かったのは『異常(アノマリー)』という作品だ。著者はパリジャンのエルヴェル・ル・テリエ氏で、ワシントン・ポスト紙の簡潔でわかりやすい賛辞を借りれば、まさに「SFとミステリの見事な融合」であった。本作品のネタバレは上記の映画と同様に厳禁だが、もし内容が気になるなら出版元の早川書房のこちらの評論を参照するとよいだろう。

ただし1点だけ、多数の主人公のうちの1人、小説家・翻訳家ミゼルに関してやけに自分に刺さる人物描写があった。

ミゼルに子はいない。恋愛の面で彼は失敗を繰り返してきたが、情熱は失われなかった。他人行儀なふるまいが多いせいで相手その気にさせられず、しかも長い人生をともにしたいと思える運命の女性には出会えなかった。あるいはおそらく、人生をともにしないですむパートナーを故意に選んでいるのかもしれない。

Hervé Le Tellier, L'Anomalie (2020=2022) 

文化資本を獲得したことで性格が穏やかになってきたのだろうか、もしくは丁寧さを心がけすぎているのだろうか、いずれにせよ他人行儀なふるまいが多いせいでそのような失敗をしている気がしなくもない。また人生をともにしないですむパートナーを故意に選んではいないか。これは作品の本筋にはあまり影響しない描写ではあるが、著者のル・テリエ氏が同じ職業人であるミゼルに自己投影しているようにも思える。

5. 図書館で

話はさかのぼるが、フランス留学中にオードリー若林正恭さんの『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』の中古本をブックオフで偶然見つけて読んだということはすでに別の機会に書いた。それから日本に帰国した後に2018年のエッセイ集『ナナメの夕暮れ』も面白く読んだ。最近はその半生が「だが、情熱はある」でドラマ化されたことで話題になったが、若林さんのその本の中に気になる記述があった。

(学生時代の不良とのエピソードを受けて)
ご機嫌をうかがっていた。
これこそが、人生の満足度を大きく左右するY字路なのではないだろうか。自分の気持ちを優先するか、相手の気持ちを探るか。どっちかではないだろう。バランスだろう。相手の気持ちを気にし過ぎる人は病気になって、自分の気持ちを優先させ過ぎる人は自己中心的だと嫌われるだろう。ただ、他人の気持ちばかりを気にしている人は、そのカーソルを自己中側に少しだけ移動させるほうがいいのかもしれない。

若林正恭(2018)『ナナメの夕暮れ』文藝春秋

私は「他者の気持ちばかりを探ってしまう心」の持ち主ではないが、ただし後者の自己中心的の文脈において、自己肯定感は自分がこれまで悩んできた問題である。正しく自分に自信があること、それは人間にとって健全な状態であるはずだ。しかし、その心の持ち様に少しでも誤解を招くと、それこそ「自己中心的」や「プライドが高い」と非難される。これが閉鎖的な社会で起きている日本特有の現象だと断言することは簡単であり、おそらくすでに多くの人々がそのことに気づいているだろう。だから私は何年も一緒にいる日本の友達より、過剰に自分を卑下しなくてすむヨーロッパの友達との方が仲を深められやすい、という自分の経験則に納得感がある。日本語で、特にもしこれが会話であれば、本稿に付け加えるべきなのは「海外の自慢をしてごめんなさい」という一言だ。この感覚は、この日本社会を生き抜くための処世術として身に付けている、もしくは今まで東京で育ってきたことによる文化的ハビトゥスとして染みついている。
結局はどのように「正しく」自分に自信をもつかということだろう。やはりバランスが問題なのだ。

さて、夏だしそろそろ区営のプールに泳ぎにいこう。それから修論の続きに戻るとしよう。

『だが、情熱はある』より、戸塚純貴さん演じるオードリー春日

最後までお読みいただきありがとうございました。それでは今回はこの辺で終わりにします。アデュオス。へッ!

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