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右であれ左であれ、我が祖国……であって欲しい

newleader 20240801より改変

■今となっては羨ましい大英帝国の気骨

「……その瞬間が来た時に革命からしり込みするのはまさにユニオンジャックを見ても決して心動かされない人々なのだ。戦死する少し前にジョン・コンフォードが書いた詩(「ウエスカの嵐の前に」)とヘンリー・ニューボルト卿の「終末の今宵は息をのむ静寂」を比べてみるといい。たんに時代の問題である技法的な違いを脇に置けば、この二つの詩の感情的な内容はほとんど完全に同じであることが見て取れるだろう。国際旅団で英雄的な死を遂げた若い共産主義者は骨の随までパブリックスクールの人間だったのだ。彼は忠誠の対象を変えたが、その感情は変わらなかった。そこからわかることは何だろう? 頭の固い保守主義者の骨の上に社会主義者の肉がつくこともあり得るということ、何かに対する忠誠の力は別ものに対する忠誠の力へと自然に変化し、精神は愛国心と軍事的武勇を欲するということ、それだけだ。左派の軟弱者たちは気にくわなかろうが、しかしその代わりとなるものはいまだ見つかっていないのである」(ジョージ・オーウェル「右であれ左であれ、我が祖国」Haruka Tsubota訳)。

イギリスの社会主義者で、「動物農場」「1984」で知られる作家・評論家のジョージ・オーウェルが1940年に書いたエッセイです。パブリックスクール出身者にして、スペイン内戦に共和国側の国際旅団で参戦(のちにその体験を「カタロニア賛歌」として執筆)したオーウェルが、ドイツとの戦争に際して「愛国者」として向き合うその心情の奥底を、自ら分析したものです。

いまだ日本社会は、この愛国主義と戦争に関して深刻なトラウマを抱えたまま。数百年間、負け知らずで世界を征服した大英帝国のように、この件について屈託なく語ることは長く出来ませんでした。

ただ、このオーウェルの分析の「愛国心」を「国民国家への責任感」と読み替えると、少しは飲み込みやすくなります。彼の国では、保守も進歩も、伝統も革命さえも、すべて国民国家の枠の中にあるようです。そして「国」とか「公」ということになると、それぞれがそれぞれの流儀で「忠誠」というか、「責任ある態度」を取るという伝統が定着していることがわかります。それ故、挙国一致も、政権交代もスムーズに行うことが可能なのです。ある政権、もしくは政体が機能不全に陥っても、混乱なく新しい体制に移行できるのです。

大変羨ましいことです。そう痛感させられる状況にわが国が陥りつつあるからです。

■野党はもう自民不信の受け皿ではない

もはや旧聞に属することかもしれませんが(本稿執筆時は7月中旬)、7月4日、そのイギリスで総選挙が行われ、与党・保守党が記録的大敗を喫し、14年ぶりに労働党に政権交代しました。

ブレクジット後の保守党政権は、離脱によって今、ヨーロッパやアメリカを悩ませている移民問題の直撃からはやや遠ざかりました。が、コロナ対策期間中のジョンソン首相のパーティー問題、財政難の中の景気低迷に財源を考えない減税で対応するというトラス首相の狂気の経済政策の迷走後就任したスナク首相も、ますます進行するインフレ、ウクライナ戦争による国際緊張の高まりになすすべなく、乾坤一擲解散に打って出ましたが裏目に出ました。もっとも勝った労働党の得票率も記録的に低く、小選挙区制効果ではあります。政権を取ったところで外部環境の厳しさは変わらず、新政権も出来ることは多くないと思います。

それでも、政権が立ちゆかなくなったとき、選挙を通して政権交代という形で空白なくリフレッシュ・スタートを切ることを示しました。

さらにアメリカ。6月26日の大統領選TV討論会で、老耄ではないかと思えるほどのバイデンの失態。バイデンは大統領選撤退を余儀なくされましたが、後継候補のハリスが支持を回復。これで共和党は草の根的な右に、民主党は極端な世界観の左に振れ、アメリカの政治的分断は決定的なことになりましたが、政治過程と言うことでは至極まっとうなものに。つまり、それぞれの正義と信念と国民国家への忠誠心の上に立っての争いならば、選挙という制度によって管理された革命となるでしょう。ともかく、接戦ということで、この大統領選挙が、俄然、政権を争うにふさわしい「内実」あるものになりました。羨ましい限りです。

さて我が日本でも、岸田文雄首相が、あまりの支持率低迷に9月の総裁選への不出馬を表明、つまり事実上、政権を投げ出しました。自民党総裁選は9月下旬、結果次第では即、解散総選挙となりそうな雰囲気です。

その先行きというか、現下の日本の政治状況を読み解く、絶好の手がかりになるのが直近に行われた大選挙、7月7日に行われた東京都知事選挙です。

現職の小池百合子知事が危なげなく勝ったのはさもありなんですが、衝撃的だったのが立民・共産公認の蓮舫候補が3位と敗れたこと。別に私は左派支援者というわけではありません。衝撃は無党派の石丸伸二・元安芸高田市長、はっきり言ってほとんどの有権者にとってどこの誰かわからないこの人物が2位となったことです。自民党が政治資金問題で国民の支持を絶望的に失っている中での選挙でしたが、批判票は蓮舫候補に向かわず、どこの誰かわからない石丸氏に流れたのです。つまり野党第一党の立憲民主党と共産党の共闘という「強力な」左派連合は、保守の自民が信任を失った際の受け皿として、有権者に全く相手にされなかったのです。

かといって自民党に対する有権者の不信任も変わらず。中間的な政党は力不足で、要するに現在、わが国には政権を担えるに足る有権者の信任を受ける政党が存在しないのです。

■それでも世界は回っている

石丸氏は、選挙後の報道取材で、ことごとく木で鼻をくくった対応を示し、「傲慢」「意味不明」と集中攻撃を浴びています。しかし、私には、伝統的な政治ジャーナリズムや選挙報道のナラティブを意図的に否定してみせていること、そしてこのような姿が若者層中心という彼の支持をさらに高めるのだろうと思っています。要するにかつての安倍支持層とみられる若者層は、これまでの政治文化そのものに拒絶反応を示しているわけです。

だからといって、このままでいいわけはありません。自民党は政党のあり方自体を問われ、多数の候補者が乱立する総裁選で競争的な政治過程を擬似的に演出しています。ボスが背後で、次の「傀儡」を担ぎ出そうとし、選挙での「人気」だけを優先して総裁を選らぼうとする姿を見ると、次のトップが、内容、人物、識見などで総理大臣候補として満足な人になるのでしょうか。期待できそうもありません。そうなれば政権党として支持を集め、安定した政権運営を行えるとは思えません。

野党もまた、都知事選で明らかなように、与党批判依存の旧態依然幹部の面々では、もはや組織票以外に相手にされません。いや、その組織票の大宗であるナショナルセンターの連合ですら、所得再配分政策で自民党にシンパシーを感じている始末です。

そして有権者も、これら自分を改めない与野党の旧来からの政治家達を、無責任に冷笑し楽しんでいるだけです。

それでは、この国は誰が安定的に運営するのでしょうか。政争や政党間競争、政権交代、およそ政治過程というものは、実は政治システムの全体としての自己修正能力の発露なのです。我が国は、どうやらその能力を失っているようなのです。

欧米で政治変動を引き起こしたインフレ亢進に経済不振、移民問題というグローバリズムへの反動と各国の内部分裂、世界大戦前夜を思わせるウクライナ戦争。

オーウェルが愛国心を自覚した戦争が日本で終結して、この8月で79年ですが、どうやらその後の世界秩序という奴がグズグズに壊れて行っています。各国で政権交代が起きるのも、そのことへの身構えといえます。しかし、わが国は、どうやら、その政権交代も、与党の立て直しもままならない状態なのです。

オーウェルのレトリックを借りるなら、「日本の移り気で無責任な無党派の有権者や、旧態依然の組織に抑圧されている政治家が纏っている肉の下には、実は危機にこそ奮い立つ英国流の気骨がある」ことを、ひたすら祈らざるを得ません。

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