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-文章力ブートキャンプ⑤- さよなら、モンスター

曲を弾き終えると、控えめな拍手が聞こえてきた。

視線をやると、ピアノから少し離れて女がふたり立っている。髪が長くて背の低い女と、髪が短くて背の高い女。背の低い方が、感じの良い笑顔で手を叩いている。俺も営業用の笑みでお辞儀をした。

ふと、背が高い方の無愛想な面に見覚えがあることに気付く。

須藤真依だ。

数瞬だけ目を見張る。少し雰囲気は変わっているが、間違いない。じいっ、とこちらを睨みつけるあの目付きは、記憶のままだ。

あからさまな視線に相手が眉をひそめる。俺ははたと、慌てて次の曲の演奏に戻った。

ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。
こういうホテルのラウンジで流れるのに、最も相応しいピアノ独奏曲。多分、もう千回は演奏したはずのこの曲に、居心地の悪い緊張感を覚えながら鍵盤を叩く。

美しい曲だ、と思う。
でもその譜面の中に、新しい何かを見出すことはもう自分にはできない。俺にとってこの曲は、もはや日常のルーティーンにすら成り果てている。
毎日変わらずこの椅子に座り、ホテルの利用客の邪魔にならない一定品質の演奏を奏でる。同じフレージング。同じタイミングでの間の取り方。同じように踏むダンパーペダル。

中盤の変調部分に差し掛かったとき、須藤真依が視界に入ってきた。連れの女の耳に顔を近づけて何かを囁いている。何を話してるのだろう。演奏に気が入らない自分がいる。

生活の全ての時間を練習に費やしてでも取りたかった賞を、自分より3つも年下の女の子があっさり掠め取っていったあの日々が頭に浮かぶ。

須藤真依のピアノは、まるで自分が存在しないような、楽譜をそのままなぞるような演奏だった。演奏者の姿が全く見えない。でも何の破綻もなく、あまりにも完璧。楽譜の完璧な再現は、あらゆる偉大な音楽家たちの再現なのだと思い知らされた。

パヴァーヌの演奏の演奏を終えると、連れの女に合わせ、須藤真依も拍手をした。
多分、須藤真依は俺の演奏は好きではないだろうに。やたらに感傷的で、鼻に付く。卑屈な劣等感に囚われたままの演奏。
そんなものの、一体どこに拍手が送られるというのだろうか。

その拍手をする手に、自然と意識が向く。

最後の曲。リストの「愛の夢 第3番」。

あれから須藤真依はどんな人生を歩んだろう。
左手の小指を事故で失って、彼女はピアノを捨てた。それを、呆気ないほどあっさりと、というのは外野の勝手な言い分だろうか。でも、あれほどの神がかった演奏を、たかだが小指の喪失くらいで捨てられることに、深くどす黒い感情を抱いた。

その須藤真依が、俺の「愛の夢」を聞いている。連れの女とは手を繋いでいる。恋人なのかもしれない。連れの女は演奏に聞き入っていて、須藤真依がそれに柔い表情を向けている。俺の知らない表情だ。

この感情は、多分嫉妬だ。
俺のモンスターが、俺をこの場所に置き去りにして、勝手に普通の人間ように振る舞っていることに、俺は嫉妬した。

最後の旋律を、繰り返し響かせる。曲の余韻を静かに引き延ばす。
そして、音の最後の一滴が空気に消え、鍵盤から手を離した瞬間、夢の名残だけがそっとその場に漂った。

俺が従業員の控室に戻ると、
「お疲れ。今日の演奏気合入ってたじゃん」
休憩していた同僚のコンシェルジュが、軽口めいて声を掛けてきた。

「別に。いつも通りだよ」俺はそっけなく返す。

「あれ、そうか。今日の小清水くんの演奏聞いてたら、なんかじぃんときちゃったんだけどな」

「ふうん」
俺はその同僚の言葉を、ゆっくりと噛み砕く。

「まあこんなんでもピアニストだからな」俺はそう同僚に返す。

今日、二人の客が俺の演奏を聞いて、満足して帰った。
それは、多分誇るべきなんだろう。

(1499字)

課題テーマ: 「受け入れがたい現実に対する自分なりの折り合い方」

  • 字数: 1500字程度

  • 構成: 日常の中での「折り合い」の瞬間(現実と内面の衝突と和解)を描写する

  • 描写: あえて感情を抑えたトーンで、淡々とした語りを用いることで、内面的な深さを際立たせる

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