「上達論」と「ことばの焚き火」的対話
「焚き火に薪をくべるように、場に声を出す/置く」という非常にシンプルな対話をしているだけで、人が勝手に変化していく。家族との関係性、仕事への向き合い方、生き方に、手触り感のある違いが生み出されていく。結局これが一番(変化が)早いとすら思う。
一体、これはなんなんだ?その理由の1つを武術研究者 甲野善紀さんを観察して書いた方条遼雨さんの「上達論」に見た気がする。
根本原理組み替えの三原則
自分が依存している癖(パターン)に気づき、それを組み替えて行くために、以下の三原則が挙げられている。
これを普段対話会でやっている事に置き換えてみると、、、
低負荷・・・言葉を出しても出さなくてもいい。人の言葉は無理に受け取らなくていい。
低速・・・沈黙が続いてもいい。保留しながら、ゆっくり言葉を味わう。自分と対話する。
単純・・・約束事は、普段の役割を脇に置き、「焚き火に薪をくべるように、「焚き火に薪をくべるように、場に声を出す/置く」を意識する事だけ。
この単純な対話の中で、自分のコミュニケーションのパターンに勝手に気づく。「人の顔色を見てしまう」「沈黙が怖い」「バカにされるのではないかと心配になる」「自分に発言なんか取るに足らないような気がする」「人に反応を求めてしまう」「難しいことを話している人がいると、体が硬くなる」「反射的に共感を示すような言葉を出しがち」などなど。
また、自分自身のこと、何が好きで何が嫌いか、何を大切に思っているのかにも気づいて行く。10人で場を囲めば、10通りの世界・10通りの言葉がある。そのそれぞれの発言に共感したり、モヤモヤしたり、ザワザワしたり、イラっとしたり、湧き立ったり。そこで、脊髄反射的に言葉を重ねないで、内にある感情の奥を覗いて行くと、自分の輪郭を手で触れるような感じになる。10人から光が当たって、自分自身がより見えやすくなるかのようだ。
私は、自分が対話の場を持つとき、特にテーマも決めないことが多いし、あまり、説明もしない。それは、やり方を細かく説明したり、言葉を重ねすぎると、頭がそちらに言ってしまい、自分と向き合うという、最も大切な作業がおろそかになってしまうからだ。高負荷・高速・複雑にすると何かすごいことをやった感はするけれど、実がなくなることも多い。
「出来ねば無意味」
「上達論」は、対話とつながることが多くて、首を激しく縦に振りながら、読んだのだけど、「出来ねば無意味」もまさに、自分が大切にしたいと思っている事だ。
対話会の中で、いかに自他を尊重し、自分の声を場に出すことができても、実生活の中でできなければ、最終的には意味がないと思っている。守られた環境でできているだけでは、仕方がないのだ。
対話会が必要なくなって行く
方条さんは、本の対談パートの中でこのようなことを言っている。
対話が日常になると、何をするのも対話の稽古のような状態になって行く。自分、他者、環境は何を言っているのかに耳を澄まし、そこから起こってくる反応を自分の中に見出して、応答するように行動する。まあ、朝から晩まで対話なのだ。
対話を始めると、最初は面白くて、いろんな対話会に行ったり、本を読んだりするかもしれない。でも、それだけでは飽き足らない瞬間が来る。そこから、対話が日常に馴染んでいくのかもしれない。
この「武術」を「対話」と置き換えても同じなんだろう。
「楽しい」と感じているうちは、まだまだ対話が「お客さん」なんだなという事です。