因果なんてわたしがとめるよ。
朝のテレビで、ドライフラワーを瓶詰めにするのをやってました。なるほど、閉じ込めればいいのかって思いました。
夫の、いろんなこと、「なのになんで?」って思ってたのが、「だからなのか!」ってわかって、長年のもやもやに終止符を打てました。
楽しくない記事なのに、優しいコメントしてくださったみなさん、ありがとうございました。救われました。
因果って、結局は傷ですよね。受けた傷が歪んで現れるんですよね。きっと。
傷なら仕方ないし、わたしにだっていっぱいある。
薔薇を捨てちゃうのも、録画を消しちゃうのも、夕方のニュースをつけるのも、わたしの大事や苦手が伝わってないんじゃなくて、知ってるから、「だから」なら、しょうがない。わたしの伝え方が悪いんじゃないなら、よかったし。
薔薇は瓶に詰めればいい。録画した番組はダビングとファイナライズをすればいい。夕方のニュース(すごく苦手。聞いてるだけでつらくなる。)は、えーっと、テレワーク終わるまでの辛抱。笑
因果はめぐる。
夫はお母さんに受けた傷に支配される。
ラッキーだったのは矛先が娘たちではなくわたしなこと。わたしは誰にも刃を向けない。ここで因果は断ち切れる。
クエスチョンマークはずっとつきまとうけど、びっくりマークなら受け入れればいい。
なくした薔薇は、縫い付ける。くすんだピンクの薔薇を、乾く前の、清志郎の手を離れた空中のかたちで、わたしの側にずっといてくれる。
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