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痛烈な現代アート界への批判と一人のアーティストの成長。フェイクな「わたし」が完全なる"アイデンティティ"を確立するまでをスリラーで追う。バーバラ・ボーランド『わたしは贋作』。


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アメリカ版よりも、日本語翻訳書のこの表紙の方が、内容を見事に表していると思う。


主人公には名前が無い。名前が存在しないのではなく(当たり前だが)、この本で彼女の名前が述べられることは一度もない。この本の中では、主人公は常に「わたし」であり、「わたし」の感覚で、「わたし」の感情で、「わたし」の経験をもとに、「わたし」目線でストーリーが語られていく。よって、「わたし」はこの物語の中で非常に重要な人物である。

バーバラ・ボーランド『わたしは贋作』は、90代後半~のニューヨークのアートシーン(というと広義すぎるかもしれない)が舞台。"キム・ゴードンとサーストン・ムーアが急に思いついて、パティ・スミスと飲んでる"街に、「わたし」はアーティストとして成功を収めるためにやってきた。

96年、19歳でアートスクールの学生だった「わたし」は、ニューヨークで開催されたアート集団「パイン・シティ」の一人、ケアリー・ローガンの作品展へ赴く。初めて実際に目にする「パイン・シティ」のメンバー5人。グラマラスでパーティー好き、時に悪名高く、そしてその才能を存分に開花させた彼らは、「わたし」にとって、"自分に失敗以外の可能性を与える「太陽」"だった。しかし、その後、パインシティの中でも、とりわけわたしが尊敬(もはや崇拝に近い)ケアリー・ローガンは、パインシティの制作スタジオ兼別荘の目の前に広がる湖で長靴にセメントを入れ、浸水自殺をしてしまう。

3年後、「わたし」は《謙虚》、《従順》、《貞節》、《慎み》、《節制》、《純真》、《慎重》という7枚の作品を作り上げる。一番小さい作品でも幅14フィート、高さ10フィート(約4.2x3m)という、文字通り大作で、パリのギャラリーへ送る予定だった。しかし、作品を保管していた自宅ロフトが火事になり、7枚とも焼け落ちてしまった。

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以下ネタバレあります。

読んでいて感心したのは、フィクションであるにも関わらず、アート作品の描写が非常に繊細であること。上記の7作品を含めた「わたし」のアートワークのみならず、パインシティのメンバーの作品、絵画だけでなくパフォーマンス・アートに至るまで、事細かに表現されているため、目の前にその作品がある(観ている)気にすらなってくる。

過去の実在アーティストの名前が次々と挙がるので、そのアーティストに関する情報を持ち合わせていた方がより楽しめるのかもしれないが、必要不可欠という訳ではなく、ここではあくまでも「わたし」目線でストーリーを同時体験していくのがよいと思う。

自宅もスタジオも作品もすべて失った「わたし」は、3か月後に迫った展覧会に向けて、7枚の絵を再び完成させなければならない。時間的には到底無理な難題なのだが、何枚かには既に買い手もついているため、実現できなければ、莫大な損害賠償を支払うことになる。「わたし」はさまざまな伝手を辿り、制作に集中できるスタジオを確保するのだが、それが、あのパイン・シティだった。

家財/画材道具を全てピックアップトラックに詰め込んで、あの憧れのパイン・シティへと車を走らせるも、着いたところは寂れたリゾート地で、与えられた部屋はベッドも家具もない倒壊寸前の納屋だった。しかもパイン・シティのメンバーには、招かれざる客として完全に邪魔者扱いされ、刺激や創作意欲を与えてくれるはずのワンダーランドには程遠い場所だったのだ。絶望に苛まれながらも、外に行くところはなく、制作を続けていくしかない「わたし」は、期間限定でいる仕事場として、割り切ることにする。そんな時、昔の友人マックスに再会する。彼女は生まれながらに裕福で、パイン・シティの別荘近くの豪邸に、あのケアリー・ローガンがデザインしたというエリオット・ハウスに美術コレクターである、チャールズ・エリオットと住んでいた。マックスとの苦々しい思い出がよみがえる。

その後、パイン・シティのメンバーの一人であるタイラーと打ち解けた「わたし」は、亡くなったケアリー・ローガンのスタジオを当てがわれ、ケアリーの元恋人だったタイラーと関係を持ち、まるでケアリーの足跡を辿ることによって、自我を確立しようとする。

"ケアリーの芸術家としてのアイデンティティは、鐘の音のように明らかだった。だが、わたしを惹きつけたのは彼女のアイデンティティではなく、作品そのものだった。"

"次にパーティでケアリーに会ったら、自己紹介をしよう。今の自分には、ケアリーと話ができるだけのアイデンティティが備わっている。"


"(タイラーの)その姿を見た瞬間、わたしの自立した大人のアイデンティティは、十九歳の少女の身体に舞い戻っていた。"

この作品の中で繰り返し述べられる「アイデンティティ」という言葉。それは、最初の個展が失敗に終わった時、ギャラリーのオーナーから言われた言葉がトラウマになっていたのだろう。"アイデンティティさえしっかりしていれば、若い女流画家の、タイトルすらない抽象画でも売れるという。わたしに足りないのは、アイデンティティだったのだ。"と気付く。

つまり、この作品は、アーティストとそれを囲むアート業界の切っても切り離せない関係を痛烈に批判するとともに、一人の少女がその「アイデンティティ」を確立し、アーティストとしてブランドを築き上げていく過程が描かれているのだ。

その成長過程に上手く組み込まれたのがミステリーという要素。「わたし」が敬愛してやまない、ケアリー・ローガンの謎の死。ケアリーに対する、執着ともとれる関心の強さから、彼女の作品に関する資料を次々に見つけては、彼女がどういう人物で何を考えていたのかを探ろうとする。そこには興味もあったが、真実を知ることで自己弁護を促すような行動だった。そして、パイン・シティの他の4人に自分の制作を手伝わせることによって、明るみに出た真実。「わたし」が真実に気付いたのがアート活動の中からだったなんて、何たる偶然いやもしくは必然だったのか。最大なるペテン師パイン・シティ。これは予期していなかった。なんとあっぱれなからくり。

つまるところ、パイン・シティも現代アートのそのある意味商業化されたインダストリーの犠牲者だったのだろうか。

「わたし」は、7枚の作品を完璧に"復元"し、パリでの展覧会を成功させる。「わたし」はもう何も恐れていない。目の前に広がるの未来に踏み出していく。なんど前向きな終わり方だろう。全てを失ったからこそ手に入れたもの。ロフトが火事にならなかったら、作品がすべて焼失してしまわなかったら、いまの「わたし」はここにはいない。

90年代のニューヨーク、アートシーン。フェミニズム。アート業界への風刺。特権階級への呪い、ものすごい量の情報が盛り込まれており、互いに絡み合う利害や憎悪も半端ないのだが、最後にはスカッと前向きになれる本。それは結局のところ「わたし」次第だったのかもしれない。


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