こんな本に出会えるから、読書は辞められない。類まれなる読書体験を与えてくれた、傑作フェッランテ。
※ネタバレあります。ごめんなさい。
とうとう読み終えてしまった。エレナ・フェッランテ作『ナポリの物語』四部作。最終章を読み終わったのは、まさにホリデーに向かう機内で、思いがけないラストにおいおい泣いてしまった。しかし、有難いことにフェイス・マスクでなんとか涙を隠すことができた。
基本的に「去る者は追わない」性格なので、「~ロス」などを感じたことはなかったのだが、今回は「フェッランテ・ロス」とも言うべき、虚無感が残る。
この虚無感はなんなのだろう、と考えると、後を引く感覚。つまり、読み終わった後も考えてしまうのだ、彼女たちのことを。
第一巻の『リラとわたし』から、第二巻の『新しい名字』、第三巻の『逃れる者と留まる者』そして最終章、第四巻『失われた女の子』まで、ゆっくりと丁寧に読んだ。第四巻に至っては、まだ終わって欲しくない、しかし早く結末が知りたい、という矛盾した感情が心と頭で絡み合い、吐き気すらしそうだった(吐かないけど)。
物語は、60代になった主人公の一人、エレナのところにかかってきた一本の電話から始まる。幼馴染のリラ(もう一人の主人公)の息子リーノからで、母親のリラが失踪した、と。
ここから、エレナの記憶をもとに過去が語られていく。この「ナポリの物語」は、二人の女性の凄まじく、波乱万丈な人生の回顧録だ。
1960年代、南イタリア、ナポリ。貧しい「地区」で生まれたリラとエレナ。二人は共に小学校の成績も良く、この頃からお互いを分かり合える存在だと認識していた。二人はある日放課後に「地区」で人形遊びをする。恐らくそれが彼女たちに与えられた唯一の遊び道具だったのだろう。遊びの途中でリラが人形を交換しようと提案する。黙って従うエレナ。しかし、リラはエレナの人形をアパートの地下室の通気用の小窓へ投げ入れてしまう。動転したエレナは、お返しに持っていたリラの人形を同じように投げ込み、二人は暗く湿った地下室へ人形を探しに行く。
しかし、そこにあるはずの人形は見つからない。リラは、「人食い鬼」とも称される高利貸で悪名なドン・アキッレが盗んだのだと主張、二人は恐る恐る、ドン・アキッレの住む部屋へ「人形を取り返し」に行く。
もちろんドン・アキッレは人形のことなど知るはずもなく、面倒くさい子供たちを追い返すために、これで新しい人形を買いなさい、と現金をくれる。
ドン・アキッレから巻き上げたお金で二人が買ったもの・・・それは、新しい人形ではなく、『若草物語』だった。
TVシリーズで、一番大好きなシーン。二人は肩を寄せ合い『若草物語』をぼろぼろになるまで読みあった。時には朗読し、時には黙読しながら。本は彼女たちにとって最高の贅沢品で読書は至福の時間であった。いつか、『若草物語』の著者のように素敵な作品を書いて「お金持ち」になる、という夢を抱いていた少女たち。そして、リラは『青い妖精』という作品を仕上げる。
エレナは担任の特別授業の元、ミドルスクールに進学するが、リラは家庭の経済的理由から小卒のまま家業の靴屋を手伝うことになる。しかし、独学でラテン語とギリシャ語を学び、エレナの家庭教師すら務める。
もし、リラがナポリの貧困地区に生まれていなければ、もしくは少しでも上の教育へ進んでいたら、ひいては、違う時代に生まれていれば・・・。
美しく成長した少女たち。自分とリラを比較し、時に励まされ、時に苛まれ、時に学ばされ、翻弄されるエレナ。ストリート・スマートで恐れを知らず、己の能力にさえも気付かず、本能のままに生きるリラ。
第二巻『新しい名字』。表紙はイスキア島の浜辺だろうか。手前の青い水着がエレナで、奥の二人がニーノとリラか。作家の辻仁成さんがイスキア島を紹介されており、行ってみたくなった。
まだ第二巻目を読み終わった頃、私は「これはソープオペラだ」と書いた。貧困、暴力、殺人、不倫、チンピラ(ここではマフィア)など、いかにも「Eastenders」に出てきそうなストーリー展開。しかし、この物語で描かれているのはそんなチープなゴシップではない。この「地区」に張り巡らされた蜘蛛の巣のような人間関係、裕福な者=地元の権力者、抵抗する力すらなくへつらう人々、家業ビジネスのために自分の娘さえ差し出す親たち。子供達はあくまでも生活を担う労働力のために育てられ、小学校以降の教育の必要性を認めない。ましてそれが女の子だったらなおさらだった。
ここに正義はない。
二人は、決して離れることのできない強い「縁」(あえて「絆」とは呼ばない。というのも、そこには嫉妬や落胆、裏切りなどの避けては通れなかった感情のもつれがあるから)で常につながっており、日常的にお互いの存在を意識しながら成長していく。
物語は常にエレナの目線で、その心の声を聴く形で進められる。それ故か、エレナのリラに対する執着ともとれる、気のかけようにどうしても同意できず、とにかく、与えられた環境を有効利用し、前進してくれ、という気持ちでいっぱいになる。しかし、リラがエンツォとの間にできた女の子に「ティーナ」(幼少期に無くしたエレナの人形と同じ名前)と名付けた時、本当に最も強く相手を必要としていたのは、エレナではなく、リラの方だったのではないかという気がした。
ちょうど第一巻の『リラとわたし』を読み終えた後、ソーシャルメディアに感想を書いたのだが、もう既に読み終えた方々から、「今から読み進めることができるなんて、うらやましい」というコメントやダイレクト・メッセージを頂いた。これは、まさに今私の感じるところ。もう一度、あのどきどきや切なさ、やるせなさを感じたい。
ニーノ。二人の女性を翻弄した。知的で教養があり、背が高くてハンサム。しかし、子供っぽく、自分勝手、責任感もなく、最後まで最悪だった男。
最後は読者を置き去りにしたかのような終わり方だが、決して不満を募らせるようなものではない。想像できなかったこともないが、誰も予想していなかったエンディング。
エレナ・フェッランテというミステリアスな作家が一体誰なのか、から始まり、物語の中にも、誰がドン・アキッレを殺したのか、ティーナを連れ去ったのは誰なのか、そしてリラはどこに行ってしまったのか、など、未解決な事件が山ほどある。ただ、それを探るのは全く野暮な話で、それも含めて『ナポリの物語』なのだろう。そして、こんなに素晴らしい作品に出会えるえるから、読書はやめられない。
物語の最後まで優しく、忍耐強くリラを守ろうとしたエンツォがどこかで幸せであることを願って。
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≪追記≫
もし、今この作品を読んでいる方がいたら、同時にお勧めしたいのが、映画『ディエゴ・マラドーナ 二つの顔』。
言わずと知れた、あのアルゼンチン出身のサッカー選手、マラドーナのドキュメンタリー。時代は少し後になるが、ナポリという都市がイタリアの中でも少し特殊な歴史を持つことを教えてくれる。