無職が呪詛を100回送ったら、感謝の領域になりました。
丹精込めて呪詛を送り続ける無職
43歳で無職になり、40日が過ぎました。40日ってちょうど義務教育の夏休みと同じです。ずいぶん休みました。
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そもそもこうして無職な日々を過ごすことの発端は、「本社への異動内示」でした。異動による拠点移動については各方面、各方向にジャブというジャブが打ち乱れ、まあ近々言われるだろうなと覚悟もしていたので、人事からの面談の場で即「短い間でしたがお世話になりました」と伝え、本当にそのまま辞めました。このとき、すっきりさっぱり去ったように見えたでしょうが、お腹の中では黒いものがうごめいていたのです。
そもそも、「同じ部署は一つの拠点で、顔を合わせて情報交換」とか非科学的すぎる。そもそも、東京23区に通勤するならもっとおもしろい会社がいくらでもある。そもそも、通勤時間のストレスほど非生産的なことはない、そのストレス経費も払えないくせに、と。異動が取り消しになる可能性もゼロではなかったので、毎朝残留を祈ったりもしました。
祈り届かず辞めてからも、「あのバカみたいに非科学的な内示さえなければ、収入も安定して不安のない日々を続けられたのに」「どうして会社の意向一つで突然人生が動かされて、こんな想いをしなきゃいけないんだ」「なんであの人はこっちの拠点に異動なのに、私は向こうへ行かなきゃいけないんだ」と、2週間くらいは呪っていました。
あの人ならなんだかんだうまくやれそう、と思われているだろう私でも、突然の無所属無収入状態はなかなか耐え難く、誰かのせいにもしたくなりました。無職の呪詛は強いので、前職の誰かが体調を崩していないか心配です。
悔い改める無職
「私の自宅から本社へ通勤するまでに、おもしろいことやってる会社がいくつあると思ってんですか?」これは面談の際に本当に咄嗟に口から出てしまい、同時に自分の本音にも気づけた名セリフとなります。つまりライフワークバランスということになりますが、通勤でのストレスを抱えたくないと同時に、「都心の会社がちょっとおもしろい事業やってるなんて、当たり前すぎてつまらない」と思っている自分も発見しました。一目置かれるような業務を、こんな地域で、この人数で?というのが私は好きみたいで、そして意外と非科学的なことが嫌いだったり、言語化されきってないと納得ができなかったり、社会人としての自分の特性にも気づくことが多かったのです。あと前職への帰属意識もかなり低かったようでした。
そして余りある時間で自分を掘り下げていくと、そういえば心底続けたい仕事とも言い切れなかったしな(業務でお会いしたすべてのクリエイターには心から感謝をしています。同じ会社内でも、まだまだやりたい業務もたくさんありました)とか、過去のジャーナリングを見ると、たびたび進路について悩んでいる記録があったりして、会社員の安定収入や社会的立場は確かに捨てがたい、でも、自分のミッションから目を背けているなという罪悪感も記されてあり、苦悩している自分が見てとれました。
退職を選んだのは間違いなく自分。
退却を選ばされたように思えた”被害者”の時間を経て、今はなんと100%感謝の領域です。だってあのまま異動がなされず、会社員の安定性を享受し続けていたら、自分のミッションにたどり着こうとも思わなかっただろうから。それって底なしの恐怖です。今は、うだうだとやりたいようなやりたくないような仕事を正当化して、仲間が楽しいから業務を続けて、家から近いから毎日通って、そんな仕事の仕方を強制終了させてもらったんだな、と感じています。そして「辞めてきちゃった」と言っても、なにひとつ反対せず、「好きなことをやればいいよ」と見守ってくれているパートナーの存在も、私には大きかったかもしれません。
ちなみに、ジャーナリングについて
一年半ほどジャーナリングを続けています。モーニングページと呼ばれたりもしています。毎朝紙のノートを開いて、脳の排水。必ず朝イチで、とか、毎回30分、書くことがなくても1ページ埋まるまで、といういくつかのお作法もありますが、どれも守らず、午後に書くこともあれば3日書かないことも。そして、基本は振り返らないのですが、「43歳の無職」はわりかし大き目の転機かなと思いめくってみたところ、なんとまあ、無職になるべくしてなったんだねとしか言いようがありません。心の動きは小さいほど、どうしても忘れちゃうから、残しておくのは私には合っていました。
仕事の嫌なことは、すべてがなんとなく誰かのせいにできる。次の仕事なんてなにも決まってないけど、誰かのせいにできないことを仕事とするんだろうなあと、進路の覚悟はできてきた気がします。
呪詛も100回送れば姿を変える。おすすめです(すんな)