わたしどこにいるの

執着を手放したら、「マジで完全にどうでもよくなる」。文章を書くすべての原動力が、「わかってほしい」だったのに気づいたから、しばらく文章を書けなくなった。別に、誰もみてないけどさ。

自分が切れ切れで、全然わからない。一体どこにいるのか。
母なるものをずっと求めていた。いまでもそうだ。わたしを丸ごとぜんぶ受け入れてくれるひとをずっと探している。私を受け入れてくれる人と、私の生活の面倒を見てくれる人がほしい。それで、わたしはずっと寝ていたい。好きなだけ寝て、好きなものを食べて、裏庭のブランコを漕いで、散歩して、畑仕事したい。採れたてのぬるいミニトマトを、水で洗って食べたい。
わたしが求めているもの。お父さんとお母さん、脅かされることのない、安心な生活。“子供時代をやり直したい”が切実すぎてつらい。

いまこれを書いている私は、たぶん、もう二度と、両手放しで“子供”をやれることはないのだろう、とわかっている。両手放しで子供をやる方法は、わたしの思いつく限りでは、例えばお金持ちのおっさんと結婚して、“妻”としてではなく“少女”として、旦那さんをお父さんみたいにして生きていくこと。それから娘を産んで、その子を自分の母親にしたてあげれば、父親も母親も、手に入る。

書いてて、吐き気がしてきた。母だ。まんまわたしの母親なのだ。吐きそう。許せない。なにそれ。あいつはこれをやりやがったんだ。娘を母親にし、旦那をお父さんにし、家族を使ってじぶんのセラピーしくさった。てことは、わたしは子どもでありながら、自分の父親と夫婦のパートナーシップを築いて、家庭を運営してきたってこと? 吐きそうなのだが。

わたしには母親がいない。自分で自分を受け止めることができない。わたしには、「大人のつもりの私」と「幼児のままの私(駄々っ子)」しかいない。大人のつもりのわたしは、すごく憎しみを溜めていて、幼児のわたしのことを毛嫌いしてる。さっきだって、

私を受け入れてくれる人と、私の生活のめんどうを見てくれる人がほしい。

って書いたとき、ちょっと、ハ?なめてんの?って思ったもん。だいきらい。幼児の自分が。どうしようもない幼児の自分が。でも、そっちがほんとうの私なんだ。それが。

わたしがほんとうに憎んでるのは、幼児の私ではなくて、母親なんだ。母親である母から、甘えられることへの憎しみ。わたしからの甘えは、ぜんぶ封じられてしまった。「そんなこと言わないで(泣)」とか「知らない」とか。いつも、子供の甘えや要求に、被害者意識か拒否かでしか反応することができなかった母。生きるために、母の前では、完全にいい子をやるしかなかった私。


いい子のまま、母親の面倒を見て、「大人になったつもりの私」。母親に完全に見捨てられて、ものすごい恨みをもっている「子供の私」。内部で喧嘩している。ものすごい、分かれてしまっている。

わたしは私を大嫌い。わたしは私を認めない。わたしは私が憎い。自分がねじれて、こんがらがっている。大事なだいじなわたしが、あまりにも、“母”に、取られてしまっている。じぶんを、あまりにも母親に捧げてきてしまった。

わたしは全然だいじょうぶなんかじゃない。ずっと死にかけてきたよ。自分のために生きたことなんてなかった。一回も、なかった。

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