「もっと、すきなことをしていいよ。」
体の持っている規則性に驚く。
大体の起きる時間、眠くなる時間、ふとお腹が空く時間、そして、モヤモヤしだして、「くるしいくるしい」と何かを過食しようと台所をうろうろする時間や、過去のトラウマが蘇って苦しくなる時間、ブログを書きたくなる時間など、毎日、大体の時間が決まっているのだ。
別に、からなずしもその通りに行動しないといけないわけじゃないのだけれど、なんとなーくそうしないといけない、みたいに、無意識に勝手にプログラムされている。もしかして、体って、ただ言われたことをずっと反復し続けるための機械なのだろうか? だから、新しい習慣や新しいことに挑戦する時は、勇気がいるけれど、行動して、それに慣れていければ、プログラムの書き換えが起こる。そうやって、ゆっくりゆっくり、螺旋階段を登っていくのかもしれない。
20歳を過ぎた頃から、自分には好きなことが何もないことに気がついた。たぶん、今思えば、好きなことが何もないというより、うっすら興味を示したものを、いともたやすく取り上げたり、否定する自分が大きくなりすぎていて、自分に好きなことをやらせてあげることを許可できなかった、ということだ。一言でいえばそれは、抑圧なのだけど。
20歳から30歳までの間は、ただ、「特別になりたい」と思ってるうちに過ぎた。好きなことをやれた時期も、恋人がいた時期も、友達がいた時期も、今思えば、表面的にすごく幸せで、充実していると思えるような時間をすごしていたのにも関わらず、たぶんわたしの頭のなかはずっとそれだけだった。
文章を書くことが好きだったけど、それよりも。歌うことが好きだったけれど、それよりも。なんでもいいから、わたしの魂と肉体と精神すべてを捧げて、人に、それもできたら、大勢の人に受け入れられたかった。認められたかった。それだけだった。その思いのために、好きなものを利用してきた。
いま、アダルトチルドレンとか、機能不全家庭とかのことをちょこっと知って、これは“幼児性”なんだってわかるけれど、頭で理解して片付けるのと、腑に落ちるのでは、理解が全然変わってくるし、何より、頭で理解するだけだと、同じように幼児性を持っている人を見た時、必ずジャッジする側になる。
から、わたしは腑に落としたい。腑に落としたいんだ。それに囚われて、自分の人生を生きることができなくて、“好きなことを楽しむ”権利すら、自分に与えてあげることができなくて。不幸であることを免罪符に、「わたしはこれだけ辛くて苦しんでいるんだから、もっと人に認められてもいい」って思っていた。好きで不幸でいて、「不幸で誰からも認められない」ことを選んでいるのも、またわたしだったのに。(認めてくれたひとから、いつも逃げたくなったし、『お前に何がわかるの』って謎の上から目線になってキレそうになったから笑)
この間、ひとりで深夜にネットカフェにいったの。数年ぶりに。それだけで、めっちゃ、アガった。うれしかった。何か、ひとつ、枠から自由になれた気がした。その嬉しさで読んだ『凪のお暇』の吸収率がヤバかった。(語彙力)
わたし、もっともっと、ただ、好きなことをやりたいの。自分に許可してあげたいの。誰かから認められるとか、評価されるとか、そんな見返りよりも、ただやっていて楽しいことを。
「そんなことして一体何になるんだろう」やってもいないのに、虚しさ係のわたしが、ずっと、傍らで、(´ω`)←こんな顔して呟いていた。いまなら、この虚しさに、はっきりした声で、返答できるかもしれない。「うっせー、“わたし”が楽しけりゃいいんだよ」
もし何かこころに響いたら、ぜひサポートをお願いします ╰(*´︶`*)╯♡