理解されること、理解すること

アホっっちゃうか?と思うぐらい体調悪い。体調というのか、体がどうなってんのかよく分からない。どこがどうわるいのか、自分でも把握できないし、言葉にもできない。ただじっとり寝転んで、スマホで動画見ながら自分を閉じ込めるか、ひたっすら寝るか、もぞもぞ何かを食べて自分を閉じ込めるか。閉じ込めてばっかりだ、

謝ってほしい、償ってほしいと、母に親を求めていた期間が過ぎて、もうわたしは一人ぼっちなんだなあという期間も過ぎて、そしたら不思議なことに、突然母が、『あなたが子供の頃、一切かまってあげなかったことを夢に見て、急に当時のことを思い出した。余裕がなくて、冷たくて、ダメな母親だった。謝らせてほしい。償いたい』と言ってきた。わたしは、ふ〜ん、そうなん、ということしかできなかった。そして、今度こそ世界にひとりぼっちだと思った。憎んでいたときのほうがまだよかったかもしれない。いや、それも相当苦しかったけど。

圧倒的な深度の差を感じた。深さ。母は、いまわたしが感じている深度まで感じたら、ただちに自殺していたと思う。少し昔を思い出したからといって、それがわたしに何の関係があるの。今までずーっと頭でしか生きられなかった人が、頭から鎖骨の真ん中ぐらいに降りただけだ。そして、お腹に降りていて、死にたくてくそどうしようもないわたしを理解してくれることなどない。つーか、仮に母が自分のお腹に降りたとして、そんなんでわたしを慰めにきたりしたら、くそきもいよ。

昔から、「理解してよぉぉおお」と「どうせあんたに分かるわけ無い!」と、「ていうか、あんたに理解されたら“私”がなくなってしまう!!来ないで!!気持ち悪い!!」がぜんぶ綯い交ぜになってミキサーにかけられ、ハリケーン状の渦になって心をぐちゃぐちゃにしていた。自分でももうわけわからないのだ。切望と渇きと飢えと、そこから何とかして抜け出したいと思っているのに、それをアイデンティティにしてしまっている自分。

子供の人生を食いつぶす親の元で育つと、「理解されることは、自分の存在を奪われること」だと学習するのかもしれない。そうやって母はどんどんわたしの存在を食べていった。わたしを食べる母に、わたしはどんどん自分を捧げた。「わかってほしい」という渇望に胸を灼かれて。

いま分かったけど、他人を理解するって、与えるとか貰うとか、そういう差し引きみたいなことじゃないんだよ。食べる食べられるとか、奪う奪われるとか、そういう、捕食とか力の関係でもなくて。ただ、ありのままその人が、その人のまんま、何も変わることなく、例え自分とは違う意見をもっていたとしても、『そうだよ、それでいいんだよ』って肯定し、受け入れてあげることじゃないか。相手が、自分はこれでいいんだ、大丈夫なんだ、ありのままの自分でいてもいいんだって、安心感を感じられればそれでいいんだよね。

親から理解されなかった人、かなしすぎる。書いてて、わかった。親以外に、一体誰が自分の存在を受け止めてくれるの。理解してくれるの。友達にも、恋人にも、このレベルの理解なんて、ふつう、求められないし、もらえないよ。ってことに、やっといま気がついた。だって、このレベルの理解を恋人に求められるのは、なんか違うと思うもん。それこそ、「私は/俺は お前の親じゃねえんだよ」案件だもの。

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