女がしんどい
子供の頃、わたしは、年の近い子供のいる家族がたくさん住んでいる、父の勤める会社の社宅に住んでいた。
母は、「人付き合いの苦手な母親」だった。
そして、それをわたしに押し付けて、じぶんの代わりに、子供であるわたしに社交を望んだ。わたしは年の近い“おともだち”たちと、遊ばなければなかなかった。それは義務だった。母を安心させるために。母に見せるために。
わたしは女の子が好きではなかった。みんなでセーラームーンごっこをした時、「ジュピター」の役をなすりつけられたので、どうしたらいいか分からず半泣きになって、一人群れから離れたことを覚えている。
わたしだって、「セーラームーン」になりたかった。
いや、以前、一度、自分から「ジュピター」をやると買って出たのはわたしだったか。(おそらく気分に余裕があり、接待モードだったのだ)
だけど、その時はセーラームーンがよかったのだ。どうしても。
本当は、みっともなくダダをこね、鼻水たらしてじたばたして、「セーラームーンをやりたい」と主張したかった。
子供のわたしは、何かを泣いて叫んで主張するという経験をほとんどしてこなかった。
あの母である。そんなことをしたら、きっと軽蔑のこもった冷たい目で見下して、存在自体をなかったことにされるだろう。
それはわたしにとって、しぬほどの恐怖であった。
幼稚園児のわたしは、砂場のわきの、木の丸太に腰掛け、胃のあたりをグッと緊張させながら、あくまでもクールさを装っていた。
「やれやれ。まったく、なんでいっつもこんなクソ役ばっか押し付けられるんだ」
まこちゃんは、勝ち気で男勝りだが、今見れば、家庭的でいい女でもある。
だけれども、当時のわたしは、もっと女の子らしい女の子に憧れていた。
うさぎちゃんみたいに、ドジでもみんなから愛されたかった。
どうして、与えなければ、愛してもらえないんだろう。
どうして、わたしが王子様をやらなければ、認めてもらえないんだろう。
noteでは何回も書いているが、母は表面上、知能指数の低いお花畑女を気取っているが、
その腹の中は、驚くほど利害得失にしか興味のない恐ろしい女である。
彼女は絶対君子であり、わたしは王子様、彼女は脳たりんのお姫様となって、朽ち果てたババアのお姫様に仕えさせられていた。
母がわたしに植え付けた義務感で、わたしは社交をこなさないといけなかった。“おともだち”のことなんか、本当は、誰も好きじゃなかった。しかし、愛着障害の彼女は、存在の一体化をわたしに求めた。
「人付き合いのできないお母さん」の彼女は、わたしが、「明るく活発で、たくさん友達のいる子ども」であっては困るのだ。
わたしがそんな子供であったら、母の劣等感が常にあてこすられてしまう。
この団地で、人付き合いの苦手なわたしを補うために社交しろ。でも決して明るい性格ではあってはいけない。
友達も作ってはならない。
お前は、一人ぼっちのわたしと一緒に、不幸でいないといけないから。
母様の命令は絶対〜✩
わたしはこの、意味不明な、頭のおかしい、きち●がいめいた難しい役を、30年間もずっとこなしてきたように思う。
だから、だから、わたしは、幼いときから、特に女の子が、女の人が、そして女性である自分が、とにかくほんとうにくそ大嫌いだった。
女は面倒くさい。でも世話をしてやらないといけない。こっちが下手に出て、どこまでもへりくだらないといけない。
しかし、そうしたなら、今度は無限に人を奴隷のように扱ってくる。
人生の初めに設定された、きち●がい女との主従関係。
出口の見えない暗闇の中で、どこまでも続く、重々しいレール。
とにかく、女という存在が、わたしにとってはどこまでも負担だ。
女といると、身が削り取られてしまう。存在が破壊されてしまう。
女といると、わたしは死ぬ。
女=敵。
女=憎しみ。
それがわたしのトラウマというか、これまで、言語化できない重々しいかたまりになっていた。
いま、こうして、言語化することができて、かたまりが少しほぐれて、ちょっとスッキリしている。