自分のためだけに生きれたらいいのになぁ。
台風の中、外でhot limitを踊っている目のキラキラした童顔のオッサンの動画を見たら、不覚にも、とっても元気が出てしまった。オッサンはその後、おもむろにシャンプーを取り出して頭にかけ、「気持ちぃい〜」といいながら、髪をわしゃわしゃとかき回していた。
コメントでは「頭おかしい」「キチガイ」「面白いと思ってんのかよ」等と誹謗中傷が書かれていた。『表現すること』を禁じられた人たちの冷ややかな目線とは裏腹に、目のキラキラした40歳のそのオッサンは、嵐の中、とても満ち足りているようにみえた。どうあっても、彼はそれがしたかったのだ。誰がなんて言っても、逮捕されても。それが彼の生きる意味であり、魂のやりたいことだから。
わたしは、誰もしない(できない)ことをしている、そのインナーチャイルドそのもののオッサンが、羨ましかった。一緒に踊りたいと思った。彼は、その瞬間、自分が心から満足するために生きているのだ、と思った。
けっきょく、“神の子供”としての私たちは、安定した仕事や、安定した暮らし、公務員になることを、本当に望んでいるだろうか? わたしは、NOだといいたい。それは親や世間から押し付けられた、「こう生きなきゃ」のロールモデルだ。この前、好きなことをしていいよ。なんていう日記を書いたけれど、頑固なわたしの場合、こう書いたから即行動なんて、しねーからな。(そんなに単純だったらわざわざ書いてないんだよな)ねばってねばって、しがみついて執着し、あがき、もがきながら、ネズミ取りのような粘着を剥がしていくのだ。
中学生のときからずっと、死にたいと思ってる。いつもお腹の下の方から、死にたいと聞こえる。最近はもっと、聞こえるようになった。「これはわたしの人生じゃない」「わたしの人生を返して」
ああ、わたしまだ、“おかあさん”のために体を捧げていて、その生き方から脱却できないから、鬱になったり、無気力になってたり、するのだなあ。体のやりたいこと、向かいたい方向、なんとなく、うすくうすく、見えつつあるんだよ。だけど、怖すぎて、次に進めない。だって、これまで一度だって自分の人生を生きたことがないのだから。
しつこい性格で、次の一歩がなかなか踏み出せず、プルっちゃうわたしは、鬱や無気力になりながら、いまの自分(”おかあさん”のいう生き方を必死で頑張ろうとしてるエゴ)があれこれ必死に言い訳しながら、諦めて進むしかないことを受け入れ、ゆっくり死んでいくのをながめてようと思う。
完全に終わって死にきれた時、新しいわたしが始まると思うんだ。その時に吹いてきた風にのって、ゴキゲンな蝶になって、きらめく風に乗って、いますぐ君に会いにいこう。 Stayしがちなイメージだらけの頼りない翼でも きっと飛べるさ On My LOVE。
これ、いま聴いてもすげーいい歌だよね。ちょっと泣けてくる。
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