9月14日 源氏と死霊とエセー。積読本の功罪について。
子供のことは大河ドラマを見たことがなかったが、大人になってからはぽつぽつとみるようになった。
まあ、史実ではない部分もあろう。不明なところを創作で埋めることも勿論だろう。
司馬遼太郎などを読むと”ああ、日本の歴史はこうだったのか!”と詠嘆する気持ちになるのだが、司馬史観などと呼ばれるように当然司馬氏が歴史のアイテムを用いて司馬世界として提示したものではあるのだろう。
留守宅には多量の”積まれ本”がある。もはや床に積まれている。だが足の踏み場があるレベルまで、調整してはいる。
で、たしかこの本どこかで見たな、という本と、あれ?この本買ってたのか!?という本に分かれる。勿論読んでいないので、記憶があいまいなのだ。
積ん読本は、積んでいるだけで自身に影響を及ぼす。これは別にオカルトではなく、まあ、おぼろげにでも買ったことを覚えており、いくら床であってもたまーに視界を横切ることもなくはなく(まあ、後ろに隠れているのは厳しいが)、本の叢を分けてある本を探求すれば、探求途上で”あ、こんな本買ってたんか!”というエウレカ!((笑))もあるわけだ。
タイトルと作者だけでも、なにかが伝わるものだ。そして出版社や装丁、古び具合などの要素が相まって、その部屋で過ごす時間はじわりと“積読本”を脳内にわずかに記憶させる。
そしてなにかの拍子にその本を手に取って、パラパラめくれば!
もう脳内はほぼ臨戦態勢だ。
もはやいつ購入したかもわからなくなっている。
一つの判断は発行日だが、まあ普通はブックオフで買っている。
長い積んどかれ期間を経て、とうとう読まれる機会を得た本!!
だがだいたいは”まえがき””あとがき”を読まれて、なんか読んだ気になられて終了だ。
だが、そういう経緯を経つつも、あきらかに電子本とは違う佇まいを、彼ら・彼女ら((笑))はもっている。
たぶん、電子本と本を比べるのがおかしいのだろう。別の存在だ。
比較してどちらがどうとか言っているまえに、余裕があれば買えばいい。
前振りが長くなった。
なにが言いたかったかというと、大河で”光る君へ”を見ていたら、自らの物語を帝に献上する、という機会を与えられた「まひろ」こと紫式部が、何を書こうかと考えながらあきらかにゾーンに入っていく姿が描かれており、そのことが妙に心に残った、ということなのだった。
そして出てきた、「これでしかありえない」という、自身から生み出されつつも、自らの手が”創作の女神”のものとなった結果であり、自身が生んだとは思えない(別にそれが傑作であるなしは関係なく)ものの姿、を感じたのだ。
それがのちの「源氏物語」である。
もちろんこうした経緯はいわゆる“史実”に残されてはいまい。だがはたしてそうではなかったか、と感じる確かさがあった。出てきた経緯はそのようであったろう、というような。
私もこうして「物語」を生み出したいものだ。
そんな微かな野望も、大それた秘すべき野望であろうが、
ひとには言うべきではなかろう、と感じるものが、
同時に微かに生まれた気もした。
本を読み、売り、再読し、積読する。
すべては、滋養栄養としてわたしの仮に与えられた”区分”、明確に分かれているわけではないが”濃度が濃い”部分である我が脳髄に、
水や太陽と同じように与えていくのだ。
すべての創作は模倣から始まるという。
模倣はその時模倣ではない。
いや、”うまく出自をごまかす”とかいうレベルではない。
いわば父母から子が生まれ、父母の要素を内包している、という
だがあくまで違った人格の別存在という、
まあ、そんな感じの”模倣”、いやそれこそ本来の意味の”トリビュート””インスパイヤ”であろう。
源氏を生むきっかけに、”枕草子”があったと”光る君へ”は言う。
では私は”積読”の叢に隠れていたはずの”エセー”を少し読もうかな、
と思った。
すこし探して、単行本だったので、手間取った。その、
手間取り、がいいのだ。
うーん、死霊、買ったことあった気がするが、ほら、ここに。みつけた。エセーと共に、鞄に放り込んだ。
エセーと死霊、”自序”と”読者に”からひく。
どちらも本文でさえない。だが、
作者は結構大切な思いで語って(書いて)いるだろう。
自序
ここにやっと序曲のみまとまったこの作品について、その意図を述べるつもりはない。けれども、この作品が非現実の場所を選んだ理由については一応触れておきたい。開巻冒頭にこの世界にあり得ぬ永久運動の時計台を掲げたのは、nowhere, nobody の場所から出発したかったためであり、また、そのような実験室を設定することなしにこの作品は一歩も踏み出し得なかったのだから。
埴谷雄高 死霊1 自序より
読者に
読者よ、これは誠実な書物なのだ。この本では内輪の、私的な目的しか定めていないことを、あらかじめきみにお知らせしておきたい。きみの役に立てばとか、わたしの名誉となればといったことは、いっさい考えなかった。もっとも、わたしの力量では、そうした企てなど不可能なのではあるけれど。わたしは、親族や友人たちの個人的な便宜のために、この本を捧げたのである。わたしが他界してからーやがて彼らは、このことに直面しなければいけないー、この本に、わたしのありようや人となりをしのぶよすがを見いだして、彼らが、わたしに対する知識をより完全で、生き生きとしたものとしてほしいのだ。
モンテーニュ エセー1 白水社 宮下志朗訳
本には作者の魂のかけらが込められている、と感じるところである。
(本、とはその中に小さなしかし自らによる世界を、創世する行為に外ならない、と感じますねー、こういう序を読むと)