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11.15 無が有を生むという幻想の中で、無が有している。

さて、中村元や井筒俊彦や龍樹や池田晶子さん(池田さんだけさん付け(笑))などを見ていると、こうしてPCを打っている私が「無」であることがなんとなく感じられる。

いやいやなにを言っているのか、という感じもあるのだが、

そこは根深い生まれてから今までの思い込み、だと龍樹はいっている。


無なのだが、「有」と感じられるのはなぜなのか。

無、という語が難しいのだ。無、とは虚無、なにもないこと、という連想が湧くからかもしれない。

だが、ここでいう「無」とはちょっと違う意味である。「一」といったほうがいいかもしれない。あるいは「無境界」。ケン・ウィルバーが言っていた語である。

一、ということは、別れて個別になることを妨げない。もともと一であるし、つながっていることとつながっていないことは同じだからだ。

そう、こういうことを言っていると、結局何も言っていないことと同じになる。変化や時間も別になくはない。あっていいのだ。

だが、本質はただ一つ。周りになにもない、境界のない大きさのない、実体を超越した「一」。精神と実体を含むもの。言葉を飲み込み、自由に言葉に「文節」作りを許すもの。


そんな極北に来てみると、結局思うことは、「今」である。過去と未来を含む「今」が一番「無」を表すことばなのかもしれない。

(堂々巡りではありますね(笑))


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豆象屋
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