1月24日(月)#日記 陰徳と陰美。ナルシシズムと真の賛美について。そして「ふるさと納税」の命名が秘めているさもしさ、について。
陰徳、という考え方がある。
この考え方について考えてみると、道徳とか徳、ではなく、人間の弱さへの深い理解が底にあるようだ。
徳を人知れず行え、という。これはつまりは功利的な考えなのだ。
情けは人の為ならず、の本来の意味(最近は「情けをかけては他人のためにならない」とこの箴言を解釈する向きもあるようだが)と同じく、
徳を人に見せるように行うことの「さもしさ」に、
人はすぐに陥ることをいさめることばであろう。
誇ること、のさもしさ。
財を誇る=さもしい。
同じく、ただ天の配分(つまりは単なる偶然)で得た美を誇ることも同じく、
さもしいかもしれない。
だが、偶然(天才、というのもこれと同じで、真の天才はそのことも合わせ認識しており、それが真の天才か否かを判断することが出来る場合がある。ジャンルにより自然と顕在してしまうことがおおいかもしれないが)得たものである「美」をいつくしみ、玉を磨くがごとく扱うことで、より精緻な趣を持つこともできるわけで、そのことはあるいはゆかしいことかもしれない。
表題の「陰美」というのも、どちらかというと「美」を誇るものとして持つのではなく、美を美として慈しむことをいいたくて作った造語である。「陰賛美」といってもいいかもしれない。
「陰徳」については、人にそれをいうことで、そもそも徳に対する個人の姿勢が残念なほうに変化してしまうことを体験している先人が教えてくれることが多いかもしれない。
理由はうまくいえないが、そのうちわかる、といった体で。
人に誇り、見せることがさもしい感じになるのは、「ふるさと納税」も同じだ。あれはさもしい。
まずは「ふるさと」というおためごかしの用語だ。
単純に、貧乏な行政が節税をもくろむ人々とWINWINする。
これが実体であるのに、「ふるさと」の語がなんともしらじらしい。
いや、地元の産業振興はいい。節税だっていい。そこになにも文句はない。
しかし「ふるさと」という語でいかにも「慈善」的味わいをつけるのがさもしい、と感じるのだ。
本当は「節税納税」、国からはもうもらえないが、創意工夫で税金を国民から直にもらってしまっていいですよ、という国のお目こぼしなわけである。
ふるさとも糞も、ないのだ。
なので「還元率」がその選択の第一優先項目となるのだ。
もちろんこの仕組みを使って、本当にふるさとに直納税しよう、というかたがたもいるだろう。それならば、本当は還元は微々たるものになるはずで、そうなると多量の税金入手は困難になる。
はなしがとっちらかった。
陰徳、というものは、人にしられない、という前提があるので、やってみると、つまりは形から入ってみると、「あれ、あんがいいいキブン」というやつだ。それが癖になればしめたもの。まさに見えない徳が、どんどんなされるし、やっている本人の高揚感だって得られるのだ。
陰美も同じだ。美とはDNAが種族保存のために、モチベーションとして定めた機能だ、もともとは。だから「異性の気をひくため」美的に異常な滑稽な進化をする、と規定される。動物の場合はオスの鳥や魚などで見られるケースが思い出される。
まず、きっかけはそうである。
だが、DNAの乗り物たる自身であっても、いつまでもその「しもべでいいのか」ということである。
つまりは、「生殖のため」「種保存のため」だけの美で、いいのですか、ということだ。
そういうものなので、全否定はできない。だが、折角ある美を、美が美であることを、愛でたいではないか、ということだ。
そんな美は、陰徳における徳のように、人に誇示するもの(だけ)ではなくなる。
美であるなあ、と詠嘆できるだろう。
ひとりよがり?
ナルシシズム??
確かにその要素からは逃れられないだろう。だが。
だがそうであっても、そこで出てくる美、アウトサイダーアートのヘンリー・ダーガーは、ただ自分のために描いた。人に見せることは想定していない。いや、たぶん幼少期の体験から、人に見せることが怖かったのかもしれない。人に見せる=賞賛を欲しがる、そのさもしさもまた、感じていたかもしれない。
美を、徳を、ただ自らのために(これは人格の問題ではない)、その本質的すばらしさを、しみじみ味わいたい。そこには一があり、他人と自分の区別はなく、他人は自分である。そんな世界で屹立する、美。それをただ見て、立ち尽くして、賛美する。
賛美。この言葉がすでに表しているではないか。讃美歌とは宗教歌をも含むだろうが、本来は美を賛する歌である。
感激と、忘我が、そこにある。
(美は、すばらしいですね。真善美、で美を一段低く感じていましたが、どうやら間違いであったかもしれません)