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2月29日 科学や資本主義への接し方。本を躊躇なく買える生活にあこがれることなど。

2007年に亡くなった哲学者の池田晶子さんのことを思い出していたが、

まあ、同じようなことをいつも書いているのだが、「科学教」に注意、という池田さんのご指摘はかえすがえすも個人的にはまさに「目から鱗」状態であった。

アメリカ(南部?)で宗教的なものから、進化論が信じられておらず、教科書にも記載されていない、というようなことを聞いたとき、いや、宗教ってそこまで??と感じたものだが、まあこれはやはり日本とアメリカとの宗教とのスタンスの違いであろう。

アメリカでは(たぶん)土葬がメインで、火葬すれることへの恐怖があるように思う。土葬なら最後の審判時に骸骨が受肉して復活する、というわけだ。

それを「信じているのかっ!!」と問えば、それはそれでいろいろあるだろうが、まあ、そうしておけば安心、という感じでの文化はあるだろうし、そういうひとが”基本火葬”という国々に対し文化的な違いを感じるのもあたりまえだろう。

で、この「科学」と同じように、現在当たり前のものとされているものに「資本主義」があるだろう。今の富の偏在具合から「資本主義はいかがなものか」という風潮もあるように感じるが、まあそれでも世の風潮は「それでも基本資本主義」ということになっているのではないだろうか。

だが、「当たり前のこととして、それが本当に当たり前か、と問うことがない、という状態」を例えば池田さんは指摘され、鱗を私の目からはがされたわけである。

昔の「宗教」もそうであったろう。異教徒は端的に「敵」。殺して当たり前。

カトリックとプロテスタントの過去の殺戮戦争具合を知れば、いやあ大変だ、と暢気に今は思えるわけだが、過去に居れば異端や魔女は火あぶり殉教、なのである。

科学や資本主義でまあ、それほど直截には殺されはしないだろうが、社会不適合者、として金がない、などで「緩慢な死」という刑罰を、あるいは受けることになる、といえるのかもしれない。

というような視点を、持っていた方がなんとなく精神がより健康に、なれる気がしている。

ジョルジョ・アガンベン 「涜神」の発行元である月曜社の同書紹介文から引く。



「宗教としての資本主義はそのもてる力をすべて駆使して、贖罪にではなく罪に向かい、希望にではなく絶望に向かうがゆえに、世界の変形ではなく破壊をめざす。その支配はわたしたちの時代においては全体に及んでいる」(本書より)。資本主義という宗教の土台にある〈神聖を汚すことのできないもの〉を侵犯せよ。権力の諸装置を無力化し、それらが剝奪していた空間を人々の〈共通の使用〉へと返還せよ――来たるべき世代の政治的課題としての瀆神のありようを明かす重要書。



1800円。今月はピンチですぐは買えないのだが、欲しい本である。

(本を躊躇なく買える生活に、あこがれます。。。。)


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豆象屋
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