見出し画像

11月11日 浪漫主義でごめんなさい。

私は死ぬまえに、私のなかにあって、私がまだ言ったことがない本質的なことー愛、憎しみ、同情、あるいは軽蔑ではなくて、非人間的なものの巨大さと恐ろしい非熱情的な力を人間の生活にもたらす、遠くからやってくる、荒々しい、他ならぬ生のいぶきーを語るなんらかの方法を見つけなければならない。

バートランド・ラッセル (1918)

今朝の体重64.7kg、体脂肪12.3%。
少し食べすぎかも。昨日は広島へ出張、広島と言えばもみじ饅頭、新幹線乗り場1階に行くとずらりともみじ饅頭屋さんが並んでいたので、いろいろ買って食べたのが体重・体脂肪増の原因か。

広島では多くの修学旅行生とおぼしき学生と遭遇。時期もいいのでツアー客(日本人・外人)もたくさん。新幹線の中ではすこし国際線の飛行機に乗っている気分になる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

車中でコリン・ウィルソンのユング伝を読む。


ユング: 地下の大王
ユング: 地下の大王
作者:コリン・ウィルソン,一郎, 安田,Colin Wilson
河出書房新社
Amazon


最近の個人的なテーマ(笑)は、浪漫主義者と発達障害や世間とのかかわりについてである。その流れからこの本を手に取ったのだが、それによるとユングは幼少期、けっこう貧乏であったようだ。だが祖父(生まれる12年前に死去)はゲーテの諸子の子孫という噂のあるスイスの裕福な名士だったようだ。

ユングは幼少期いじめられるが、その後体格が良くなって、肩幅広く、スイスなので徴兵制もあったようで姿勢も良くて声もいい美丈夫になったことで、いわゆる生物学的に言えば”アルファ雄”となったようだ(身長は6フィート1インチ、約185.4cm。チビだチビだと言われるヒトラーでも175cmはある。ヒトラーでも、まあ、日本ではちょっと高い位だろう。因みにフロイトは172cm。13cm高いユングに対し圧迫感はあったのだろうか。当時の状況はわからないが、現在のスイス人の平均身長は179cm。それと比してもユングはすこし大き目だ)。

この生まれつきの体格・体力・風貌というものは、いろいろな意味で、ガチャ、つまりたまたま得られるものではあるものの、生きていく上での影響はやはり大きいのだろう。

さらに、さえない牧師であった父が死去し、”ぱっとしない”母との関係もいまいちながら、奨学金申請が通って(通ったことにユング自身はおどろいたそうだ)大学に行き、そこで”主体的に判断でき、未分化(=つまり自身のやるべきことがありそうな)な精神医学分野を”発見”したことで、その人生が大きく開けた、ということだ。

なるほど、がちがちに出来上がっている学問分野より、これから広がっていく分野、そして医学というなくてはならない実学。

そういう意味で、文学者になるよりユングは幸運であったろう。
そして精神医学、という分野は、私見ながら人とのかかわりで、私のイメージする”文学”との親和性がすこぶる高いだろう。

浪漫主義者は、現実逃避者との同義語である、というのは、大田俊寛氏のグノーシス主義に関する本での主張である(私見です)。

グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション〈新装版〉
グノーシス主義の思想 〈父〉というフィクション〈新装版〉
作者:大田 俊寛
春秋社
Amazon
ここでは何度か述べているが、この意見は結構ショックで、私はなにしろヘッセ→ユング→グノーシス主義、というルートでこの思想に出会っているので、

特にユングは、自らの思想を強化するために我田引水的にグノーシス主義を”いいように利用しちゃっている”という大田さんの主張は正直インパクト大であった。

だが、正式に学問としてこうしたことを学んだことがないが故、ある意味”本に書いてあれば真実”と思いこむ癖が自分にあるのだなあ、という蒙を啓いて頂いた感もある。

ユングはここ日本では、大御所・河合隼雄さんの紹介で入ってきているので、たぶん海外ではより”トンデモ”と思われているものの、より学究よりの雰囲気がある。
だが河合さんも、ユングをそのまま日本で紹介すると、トンデモ色が付きすぎると危惧されて、箱庭治療など実務面から導入された、と聞いている。

その傾向は、ルドルフ・シュタイナーなども似ていて、日本ではこれも”シュタイナー教育”と言う実務面での効用が強調され、その底に流れる思想はどちらかというと慎重に”隠されてきた”という印象がある(個人的な印象です)。

だが、そもそもの本場?欧米では、ユングはトンデモに類別されているという事を聞いたことがあるし、シュタイナーも同じくコリン・ウィルソンが伝記を書いているようだが(未見)同じような扱いを受けているかもしれない。

いわゆるヒッピー世代、ベトナム戦争忌諱、といったムーブメントと重なったり、神秘学や霊魂趣味(コナン・ドイルなども時代だろうか、いろいろ関係しているようだ)とのシンクロもあったことだろう。

だが、時代とどうシンクロしようとも、ユングが心から追求したかったものがなんであるか、そこが勿論重要である。

”われわれはどこから来て、どこに行こうとしているのか”

この問いを得る人は、もしかするとすべての人ではないのかもしれない。

デカルト的実証主義が性にあった人々は、そもそも意味なんてない、死んだら無になる、とこころから感じているのかもしれない。

このあたりは、それこそ、個人の自由、好きにすればいい、とはおもうのであるが。。
(まあ、私はいろいろ考えたい派=浪漫主義者、にどうしよもなく惹かれちゃいますねー。。冒頭に置いたノーベル賞受賞者、ラッセルも、なんとなくそういうことをやりたいなあ、と思っていて、出来なかった感じがあるようですね)











いいなと思ったら応援しよう!

豆象屋
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。