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9月8日 レスペクトは人の為ならず。ブックオフで買った読者にブチ切れた漫画家のことを思い出すなど。

今朝の体重62.6kg、体脂肪11.2%、昨晩は62.4kg、体脂肪9.4%。

一日で急に1.5KGほど体重が減った。だが体脂肪はなんじゃこれ、である。

まあ、理由は夜大汗をかいて1時間弱あるいた所為だろうか。だが62キロ代はいわゆる学生時代と同じくらいであり、私の基準では”ちょっと痩せすぎ”としているので、まあ63キロに緩やかに戻していこうと思っている。ということで、朝から冷凍サバを食べてきた。夜は胸肉を食べよう。

昨日は普段はトレーニングの日なのだが、銅版画の制作が押しているので版画工房に行った。今日も連続して行く予定だ。

まだ転写をしている段階で、彫りはほとんど進んでいない(とりあえず失敗すると嫌な顔だけは彫っているが)。

カーボン紙で転写しているが、この暑さで持ち運んでいたら引っ付いてしまってやり直し。まあ、失敗すれば学びもあるわけで。。。

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さて、最近は節約系YOUTUBEを見まくっている。最近はKentaroさんの動画がお気に入りだ。

一人暮らしでいままでのように過ごしていたら金が足りなくなったので、普段の生活を見直す必要が出た。まず絞ったのはラテマネーと酒。そして外食。
これで基本費用はだいぶ抑えられた。

酒もラテマネーも外食もコンビニも、習慣である。より健康に気を遣うべきで、こうして体脂肪が増えた今、外食をしても幸せではないのだ。

体脂肪が一桁なら、チートデイなどと称してどか喰いできるが、2桁であればそもそも日々がチートではないか!と思うわけだ。

もちろん人に押し付けるものではない。体脂肪一桁でなにがしたいのか、となる。

だが体感それくらいに絞っていると、結構気合がはいり気分がいいのだ。
こうしてここに書いてはいるが、日常で人に言うわけではない。完全な自己満足。

食事内容は特に変えたわけではない。昼は外食はやめたが、そもそも前の職場ではプロテインバー1本であった。あまり変わらない(いまはプロテインを水筒で水に溶いて飲んでいる)。
夜は鶏と鯖を交互に食べる生活だ。あと味噌汁。

パターンが決まれば、特に悩むこともない。

あとは、セーブした金で(わたしは“おかね”というのがちょっと嫌。金持ちはすべからく”お金”と言っているようだ、と森博嗣さんが言っていたが(お金をレスペクトしているから金がある、という面は間違いなくあるだろう)、私は幼少時なんでも”お”をつけて、いじめに遭った経験があり、言葉の選択には慎重だ(関西人)。人に聞かれることの多い単語は、気を付けて人の大多数と同じように言うようにしている(於関西基準=今は東京にいるが))文化的なこと、心が豊かになることを少しずつ行っていきたいと思っている。

そのkentaroさんの動画で、”レスペクトを欠いた節約はやめよう”というアイデアを聞いて、なるほど、と思ったのだ。

つまりは“情けはひとの為ならず”だな、と思ったのだ。

この”情けは人の為ならず”は本来の意味、情けをかけることは回りまわって自分の為になりますよ、ということではなく、“世の識者”が”嘆かわしい、最近は情けをかけることは他人のためにならないので、掛けない方がいい、と理解して、情けをかけない人が多い”と言っていたとの認識を長くしていたが、今はそんな”世の識者”のような属性の人自体が消滅してきた気がする。

その消滅は悪くはないのだが、まあ、”嘆かわしい”という”うっとおしい正論”がほとんど聞けなくなると、ちょっとなつかしい気もする(天邪鬼(笑))。

そのことではなく、本来の意味は味わうと滋味がある言葉だが、そうは言っても最終的には”自分にとっていい”つまりは、”得である”ではある。

かつて池田晶子さんは、”パパ活”の古代呼称”援助交際”をする女子高生が、”誰にも迷惑をかけないのにどこが悪いのか”と聞いた時、人はうまく答えられていないが、私なら”誰にも迷惑はかからないが、あなたの魂に悪い”と喝破されており、個人的にはたいへん納得感があった。

つまり”レスペクト消費”はこれに繋がる活動だな、と思ったのだ。

おなじく思い出すのは、ある漫画家(どなたなのかは本当に把握していない)が、ファンです、ブックオフで全巻揃えてます!といった人に、”お前なんかファンじゃねえ!!”と激高した、という記事(記事なので、切り取られている可能性あり)を読んで、ブックオフ利用が多い私は自分が貶されている気がして嫌な気分にはなったのだが、

そのときどこかのこっていたしこりが、これであったのか、と思ったわけだ。

漫画家は結構旬なものだ。私も幼少期は漫画家になりたかったのでよくわかる。
偉大なマンガ家である故吾妻ひでおさんが、まあアル中がより大きな理由ではあろうが、いろいろご苦労なさったことなども思い出す。印税は結構、一過性のものなのだ。

それを想えば”オレに一銭も入らない新古書店で買いやがってファンと言い腐るやつがファンなどとオレの前で言いやがって!!”と激高するのもよーくわかるが、一方で、その人は印税の仕組みを理解していない若手の方だったという気もするので、ちょっとまずは”新古書店では私には印税が入らないので、きついんです”と教えてから激高してもらいたい、とは思う。

まあ、激高は一瞬の怒りの高まりで発露する感情なわけで、そんなことは無理だろうと思って言っているのだが。。。

つまり知らない人に、知らないことで激高することに、その漫画家の家計の厳しさを感じつつ、もうワンステップ!と思うわけである。

もちろんその”ファン”は大反省して、これからは新刊書店で買います!という事だろう。
まあ、そういう美談では、こうして炎上案件として私が知ることはなかったはずだが。。。

Kentaroさんの”レスペクトを欠いた節約”というのも、似た風味がある。

例えば最終的にはネットで再安値で買うことを決心している人が、完全に実機を確認する為だけに実売店で店員の説明を受けることなどである。

これは既に私を含め多くのひとがやっていることではあるのだが、接客した人にとっては時間の損失であり、そういう損失を意識して、たぶん”自分のため””自分の魂のために”行うことをやめよう、ということなのだろう。

後味が悪い、という言葉もある。魂に悪い、とはそういうことに繋がるのだ。

ではブックオフや図書館で、ただで本を読む行為はどうなのか、となるだろう。
大変難しいが、一昨日挙げた佐藤康太郎さんの「百冊で耕す」では、縦横無尽に無料の図書館を利用しつつ、そこで最終的に”これは!!”と思った本は買いましょう、というか、買わずにおれなくなるだろう、という意味のことが書かれており、これにも納得感があった。

偉大な本は所有せざるを得ないのだ(まあ、個人的な意見です)。

電子書籍を本と同列にするからいけない。似てはいるが、本質的には違うものなのだ。

違うことを理解して、自分に合った形で要すれば両者を所有(電子書籍は所有、という感覚薄いですね。利用権、でしょうか)していけばいい。

(Kentaroさんが、節約により自分に真に必要なものが浮かび上がる、ということをおっしゃってましたが、実感しますね。もうひとつ思い出したのは、”花恋”こと”花束みたいな恋をした”で、主人公の男性(つい”フィリップ”と言ってしまう(笑))が好きなイラストでひとカット千円から3カット千円にされて、文句を言うと発注終了になったエピソードですね。電子時代、イラストは無料がデフォルトになり、突き抜けたイラストか、相当な水準だが安価なオリジナルしか商売にならなくなってきましたね。このあたりも実の本か、電子書籍かと似た構図がありますね。個人的には個人ひと棚本屋で自作の銅版画小品が昨日ご購入いただけたこと、本当にうれしく思っています)




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豆象屋
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