8月18日 片山廣子の短歌。
今朝の体重65.5kg、体脂肪13.3%。
うーん。。。
昨日は昼牛丼、夜ぎょうざ、一昨日は昼チキンラーメン、夜中食(ロピア初訪問)でいわゆるチートデイズだったので、こんなものだろうか。
体重計に乗る会えは66キロは覚悟しようと思ってはいたので、思っていたより少し少なくはあったのだが、まあ、見事なくらい食べると太る。
一つの原因は、夕方の雨によりあまり歩けなかったことだろうか。休日はだいたい夕方2時間ほど歩いて、1万歩を目指しているのだが、夕立ちが多く2日ほど歩けなかった。
しかし歩かず食べると(決して食べすぎたというほどではないが)すぐ太る、というのは勘弁してほしいものである。
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私の好きな片山廣子を知ったのは、始めは翻訳であった。
「かなしき女王」。
一読、素晴らしい物語に引き込まれた。そしてなんとはなく感じた。
「これはストーリーもさることながら、翻訳が素晴らしい。」
文章としての格や気品が違う、と感じた。
その時は翻訳者「松村みね子」とはどういう人であるのか、全く知らなかった。
その後、その作品は、女性名で男性作家が著わした本であることが(作家の死後)あきらかになったものであり、また翻訳者「松村みね子」も翻訳用に片山廣子が用いた筆名であることを知った。
のち英国総領事を勤めた父を持つ廣子は、1878年(明治11年)生まれである。
7歳で東洋英和女学校に入学するが、自宅から1キロの距離であったが寄宿舎に入ったという。
この「東洋英和女学校」は、WIKIPEDIAによると以下のような学校である。
東洋英和女学院は、外国人居留地以外に外国人が住むことができなかった時代に居留地以外でミッションスクールとして設立することができた学校である。1884年(明治17年)、カナダ・メソジスト教会(現:カナダ合同教会)の日本派遣婦人宣教師マーサ・カートメルにより日本女性の自立・地位向上を目指して設立された。
設立当初から西洋人教師による英語教育、欧米の新しい文化や学問が学べる場として、授業料が高額であったのにもかかわらず、進歩的指導的階層に属する人々から高く評価され、多くの入学者を集めた。
1878年生まれの廣子が7歳の時は単純に足すと1885年である。同学校ができた最初期の入学生であったろう。
そして7歳で寄宿舎生活、というのもなかなかに厳しいのではないかと思う、家が近い、ということは慰めにはなったと思うが。
寄宿舎に住まい、宣教師でもあろう西洋人教師に小学校時代から接したことは、廣子の人生観ややりたきこと、そして学校という仕組みを経て後の人生に大きく影響したことであろう。
なにより当時の日本での女性の位置や立場に、もどかしい思いを抱いたのではないか。
学校卒業後、21歳で大蔵官僚片山貞次郎と結婚、廣子42歳の時に貞次郎を50歳で亡くしている。46歳で芥川龍之介と出会う。その時竜之介32歳、娘總子17歳。
49歳の時、芥川が35歳で自死する。67歳の時、長男達吉を45歳で亡くす。
・月の夜や何とはなしに眺むれば わがたましひの羽の音する
・ことわりも 教も知らず 恐れなく おもひのままに 生きて死なばや
・あはれとも 憐れむことの罪ならば 我に罪あり神にも恥ぢず
・我が世にも つくづくあきぬ海賊の 船など来たれ胸さわがしに
・もろもろの 悲しきこともあやまちも 過ぎたるものは過ぎさらしめむ
・むかしわれ神の教を学びつる 麻布のすみの灰色の家
晩年のエッセイ集「燈火節」より引く。
ばらの花をきり、つぼみを一つきり、二つきり、小さい利益と小さい損失を積みかさね、積みかさね、自分の新しい仕事を育ててゆかなければと、この頃しみじみ思うようになった。お花やお茶の先生も、洋裁も、玉子を賣ることも愉しいだらう。洗濯婦になることも勇ましく氣持が好いだらう。
自分の新しい仕事。
私もなんだかそう思っている。
(翻訳「かなしき女王」、まさに自身を投影して訳したのではないか、と思います)
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