2月21日 人は快楽に慣れる。世界でこの瞬間誰も考えていないことを考えたい。
私は最近とみに思うのだが、熱しやすく、冷めやすい。飽きっぽい、ともいえるだろうか。
自身の興味が周期的に変化することを感じる。快楽に慣れる、あまり快楽を感じない、ということだろうか。
例えば絵に集中していれば、時計は買わない。時計を買いまくるときは、絵がおろそかになる。
両方、というときもあるのだろうが、熱量の絶対値が決まっているのだろう、片方に集中しているときには及ばない。
皆さんはいかがだろうか。
最近好きな荒川洋治さんの本を読んでいて、”長談義の心得”というものが列記されており、2人で人が他でしゃべっているようなことではなく、今この瞬間、日本で誰も話していないような(もちろん推定でしょうが)ことを話すべし、という項目があり、自身に振り返って深く納得するところがあった。
私は(荒川さん同様)友達が少なく、というかほとんどいない感じである。友達とは、2人で、何時間も、気兼ねせず語り合えるようなものを指すようなので、これはなかなかハードルが高い。
なので、友達とそこまで話すことはほぼ無い。さみしい話ではあるが。
だが、今までの人生で、「ああ、今この世界で、こんなニッチなことを考えているのは私一人だろう」と思うことがあり、それはつまり気分がいいことだったのだ。
まあ、”あのマンガのあのシーンの横顔はかっこよかった”位のミクロなことなので、他にそんなことを考えている人がいるわけがない。だが自身が自身のために好きなことを考えているのだ、といううれしさもそこにあるわけだ。
荒川さんは、14時間も、時計もみずに話続けた、という。友達と。
共通の好きなことがあり、それがマイナーであれば余計に、その時間は愛しいものだろう。
そのエッセイの中で推定荒川さんは48歳、友人は20歳年下というので、28歳位だったとうか。年齢差を超えて、好きなものの話は出来るのだ。
ありがたいことに、最近会社以外で入った版画工房で、今まではこんな話だれともしたことがない、という話が出来ることがある。これは本当に楽しい瞬間だ。
マイナーな銅版画、それを好きでやっている人と出会うことは、日常生活ではほぼないのだ。
私より若い人が多いが、年上の人もけっこういる。
酒の力を借りると、そうした”疑似心の友との時間”が現出しやすい。その時間の共有が、仕事で役立つのだ。私のような能力のない人間の場合(実力勝負は全く無理)。
だが、酒の力を借りないとそういう時間が共有できないのは、仕方がないが残念でもある。酒がなくとも14時間(相手の方は飲んだようですが)。
うらやましい時間である。
(”長談義”という、すこし古式ゆかしげなネーミングも、いいですね。談義、ということば、久しぶりに聞きました)