3月30日 「誰も信頼しないことによる、誰にでも開かれた信頼」のこと。
小川さやかの”「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済”をKindleで読んだ。
小川は本書で、ピダハンの生活や文化について言及している。ピダハンについては前に読書感想文を書いたことがある。ある意味、非常に叡智に満ちた、生き方を教えられた気がしたものだ。
ピダハンの生き方についての私の理解は、彼らは生きていくのに、過去や未来への心配、といったものが無駄であることを、心の底から実感し、それらに煩わされない日々こそが、生き生きとした幸せな人生である、ということを体現している、というものである。
それはいわゆる「外の人間の生活」を知ったとき、それがうらやましい、自分たちもそういう生活をしたい、と思わないような生き方だ。
ピダハン以外のアマゾンの部族は、例えばいわゆる「文明品」を希求し、それが手に入らない生活がイマイチなものである、と暗い陰鬱な気持ちに彩られた生活へと転落している、という。
だが、ピダハンはそうではない。そもそも彼らには、比較する、という考え方や言葉が存在しないのであるから。
人より自分がいい。人のほうが自分よりいい。
この気持ちは、それが「文明の進歩」を生むからという方面の理由から、まあ必要なもの、とされているのだと思う。
だがそれがリアルに、卑近に、自らのものとなってのしかかってきたときは、「すべからく不幸のもと」となるだろう。
いわゆる「エゴ」という奴のことだ。
世界一美しく、金持ちで、すべてが手に入る人類がいたとしても、その次に「比較」という悪魔が彼・彼女を引きずりこむのは、例えば「加齢の恐怖=不老不死への希求」であろうか。古代の王は自らが「神に連なるもの、あるいは神となるもの」であると「思いこむ」ことにより自らの魂をなんとか抑え込もうとした。
すべからく、失敗したが。
だがまあ、それがいわゆる「文化」として残り(ピラミッドのように)、後世の人間が研究したり楽しんだり、ということで「文化」になった、という結果はあるだろう。
だが「王」たちは別にそんなことをしたかったわけではない。
だから「ピダハン流」しかない。
かれらは、誤解を承知でいけば、「祖先」もない。いやそんなことは無いだろう、親がいないと子はいないよ。そうなるのだが、いってしまえば親が死んでいなくなってしまえば、あたかも「なかったこと」であるようになるような、意識と生活を、ピダハンは行っているのである。
なので、目の前にいない、神のことを教えようとしても、できなかったのだ。
神、は目の前に居なければならない。それはどちらかというと、神、というよりは「精霊」といったもののようだが。
目の前に居れば、神だろうが、精霊だろうが、居る。
これがピダハンだ。
この世は永遠で、この「一瞬」と呼ばれるものこそがただ一つの「真実」である、という考え方がある。いわゆる「インド系」の考え方だと理解しているし、ここはピダハンが過ごす「いまここ」のみの生活とつながる面があるだろう。
結局行きつく先、不安を抑え込む、だれでも参入できる考え方は、その方向のように思う。
そうでないと、「年金が心配だ」「2000万円必要だ」といったことになる。当然、「いわゆる高年齢の高学歴男性」のみにしかいきわたらず、結局みんな不幸になる。
まあ、ピダハン流でいけば”不幸”の〝不”は比較の言葉なので、そんなことばの存在がまずは否定されるわけだが。
まあ、そんなこんなが勝手な私的ピダハン理解なのだが、小川は自身がフィールドワークしたタンザニアの生活が、こうした「ピダハン流」の考えにも通じる、と言ってる(と私は思う)。
例えばここ日本では、学歴や会社が、「将来を担保する」ものとして考えられている。だが、それがなんとなく「本当にそうなのか」というような不安の中にもいる感じだ。そこがストレス源である。
そんなものが、望んでもあるわけがないタンザニアでの多くの人は、その場その場で発生する人間関係が、それのみが、それこそが「生き延びるためのほぼすべての資源」なのである。しみじみ実感で、それしかない、事実なのである。
なので、逆説的であるが「余裕と自信」が生まれる。とにかく生きている。そしてそういう覚悟と生き方をこれまでもやってきた。なんとかなってきた。これからもそれでいく。
これである。
生きて、健康であれば、生き延びられる。
ピダハンにも通じる、いわば文明国の人間からすると「根拠のない自信」。
だが、究極で、正しいのは、果たしてどちらであろうか。
(たぶんピダハン流ですね。最近とみにそう感じます。表題に引用した、「誰も信頼しないことによる、誰にでも開かれた信頼」というのが、タンザニア流の生き方の流儀です)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。