12月7日 ブログだいたい15年。
2008.5.17。
今からなんと15年以上前である。2007年2月23日の池田晶子さんのご逝去から受けた衝撃がどうやら1年以上も続いて、自然発生的にブログというものを”はてなブログ(旧はてなダイアリー)で書き出したように思う。
となると池田さんが亡くなってから16年以上が経過したことになる。それまでは池田さんが亡くなる直前まで続けられた、週刊誌上のエッセイを立ち読みなどしながら、日々教えを反芻するような日々であった。
私は読書はすきなほうであったが、自分で書く、ということはあまり幼少期にはやってこなかった。メモは良くした。どちらかというと備忘録、資料として。
たぶん私の中でいちばん記憶に残るのは視覚記憶だろう。幼少時の記憶でも視覚情報として想起できることもある。文章により惹起されたことは、あるのだろうがもっとぼんやりした感じで記憶の中でたゆたっている。
だが、大きく見れば表現である。よきコンテンツがあれば、それがマンガであれ、小説であれ、影像であれ、コンテンツというものは核としてあるものだ。なのでなにか特定のジャンル”しかできない、好きではない”と思うのは自身の経験可能性を狭める残念な態度であろう。
小説であれば、主人公のビジュアルは自身の脳内で設定し放題だ。これが結構楽しいのと、映像化されたときにイメージと違う、同じだ、などといって騒ぐ楽しみが大きい。
一方マンガがアニメになればその幅は大きくない。古くは結構違ったこともあったが、今はそれほど差異がない、というべきであろう。映像はその中間か。
フィクションであればそういう感じであるが、池田さんのおっしゃる”考える”、いわゆる”哲学”に含まれるようなものの映像化はけっこう難しい、というか無理かもしれない。
錬金術などでは、概念を絵で表す、ということもなされていた。タロットなどもそういう気配がある。
そういう表現、というものにも惹かれる。容易ではないぶん、”そうか、そういう表現で来るか!!”という驚きと楽しさが、いやますのだ。
(うーん、タイトル回収うまくできませんでしたが、ご容赦ください。。。)