6月27日 守破離。無意識にできるようになって初めて意味がわかる、ということ。
守を行わずに破から入ることを厭う人がいる。
これがその相手を教育する立場であったり、真に相手のことを思いやってのことであればいい。
だが、時に自身がいやいや守から”やらされた”ので、うらやましい、ずるい、と思って言っていると感じることがある。
そういう時は「破からでもいいのかな」と思ったりする。
まあ、ケースバーケースであろうが。
なんというか「道」を極める、というか、極めたい道があるのであればやはり「守」から行くべきだろう。どこまでが「守」なのかと考えると、それはやはり「息をするようにできたら」ということだろうか。
(自身がそれほど習熟した分野ないので、推定ですが)
一日30分やって10年やれば専門家、という。30分を30日で15時間、1年で180時間、10年で1800時間となる。それくらいやれば確かにだいぶ自然にやれるだろう。
絵などもとにかく一日1筆でもいいから描け、ということを聞いたことがある。
私もトイレにスケッチブックと台とシャーペンと消しゴムを用意して、とにかく膝の上に台を置いて、紙を置いてちょっとだけ描くようにしている。描きだすとスムーズに描き出せるものだ、と実感している。
量は質を凌駕する、という考え方も心強い。とにかく数を撃て、下手な鉄砲も数うちゃ当たる。野卑な語感だが真実でもある。
天才でないときは、継続で行くしかない。天才でなくとも、守破離で守をきちんと行うことで、破と離を実行することができるだろう。
(いうは易し、行うは難し、ですけどね)
いいなと思ったら応援しよう!
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。