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6月8日  ゴヤと戦争とデビルマンと。

せねばならない、と思うことは嫌なことだ。

せねば=させられている。
自分自身でそもそもやりたいのであれば、そのことを”せねばならない”と表現することはたぶんないであろう。

自分自身の希望であるように自身で思っていたとしても、それはどこか、”生きるために稼がなきゃ””稼げるようになるために試験でいい点取っていかなきゃ”といったような変なやらされ義務感的な思いから来ていたりするのだ。

身近なところでは”掃除”。

そうじしなきゃ、という思いで掃除することほど、嫌なものはない。

まずは”掃除は嫌なことではない””掃除が楽しい””掃除してみたらすっきりした”。こう思う必要があるだろう。

私はどうも”地に足がついていない“タイプだ。
理想世界に逃避しがちな”よわたん”だ。

そんな私でも、掃除の結果が気もちいい、ということはある。最近やっているのは排水溝のぬめりとり、だ。今朝も、やってしまった。

家はワンルームなので、排水溝は小さい。ぎりぎり手が入るくらい。あまり料理というえる料理もしないし、洗う皿もすくないのだが、それでもぬめりは発生する。

ちょっと気もちわるいが、手を入れて洗うしかない。あまり間をあけずにやっていると、そんなに気持ち悪くはない。時間を空けると悪臭がしてぬめりも多くなる。

やってみると変な達成感がある。風呂も入るたび、シャワーでさっと洗い流すようにしているが、そうすると汚れがあまりつかなかったりする。

最近は掃除機ではなく、床のむき出し部は手でゴミを集めてすてている。
まあ、汚らしい話ばかりだが、汚くなったら掃除しよう、と思ってどんどん汚れるのを見ているよりは、だいぶ気持ちも違うようだ。

義務感ではなく、”自然にやりたくなる”。この境地を追求していこうと思っている。

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いまはまだそこまでの言及をするには早すぎるのであるが、彼の眼は、歴史を吸い込んで、しかる後にそれが表現されたときに、歴史はそこで一区切りを自らつけなければならぬようにさせる、そのような強い眼である。

彼が空飛ぶ魔女たちを表現しきったとき、歴史は狂ったように無知な百姓女から高位の聖職者までを火刑にして来た異端審査をやめなかればならなかった。つまりは、歴史は近代と言ってこれが早過ぎるならば、中性からはっきり踏み出て、近世へ入らざるをえなかった。

堀田善衛 ゴヤ P.47

ゴヤの描く(というか銅版画なので削る、というべきか)戦争や魔女たちの図のインパクトは、時代と場所を超えてここ日本にもいまだ大きく影響を与えているといっていいだろう。

すくなくとも個人的には、例えば自己規制で写真では残らなかったであろう”くしざしにされた敗軍の兵”といった地獄絵図も、版画という世界であったが故に今に届く。

ああ、戦争とはこうであるのか。

今であればフィクションという衣をまとい、映画やマンガであれば表現できる世界と通じている。

だが個人的には動画や動画と近い(枚数の多い)マンガよりも、こうした一枚絵というものはその場面だけを永遠に写し続けるだけにインパクトがより強い気がしている。

勿論マンガでも同じような一枚絵としてのインパクトはありうる。

いま絵として思い出すのは、永井豪のデビルマンの美紀の生首や、バイオレンスジャックの人間犬たちである。

永井豪作品は、長らく続く西洋の悪魔の系譜に、アモンの物語を加えたものだろう。
そういう意味では、ゴヤと豪ちゃん(ファンなので失礼)は、結構近しい関係とでも、言えるのかもしれない。

(久し振りにデビルマン読みたくなりました)










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