日記3月29日 サル山は人間社会の縮図である。社会主義と資本主義とシェアリングエコノミー。
さて体重今朝朝食前65.9kg。体脂肪率13%。昨日は65kg、5%であることを考えると、毎日の体脂肪率の増減にクラクラくる。
プーチンによるウクライナ攻撃を見て、人間の社会制度の変遷についてぼんやり考えた。
もとより私、社会は日本史専攻で高校生時代から世界史は学んでいない。なので、世界の歴史は皆目わからない。
思想については少し学んだ気がするが。また、地理は一切学んでいない。政治も一切学んでいない。
受験というものは、受験に関係がないことを学ばないデメリットもあるようだ。勿論意識が高い人々はいるだろう。私は意識低めである。
なので、ばらばらの知識がまだらに入っているだけだ。特に「義務としての政治」が嫌で、なんだかわからないが選挙にいけ、と言われると余計に反発してきた。
最近NHKで「映像の世紀」という番組を続けて見た。これは外国(アメリカ?)との合同番組のようで、なんとなく名前を聞いたことがある人々が、リアルな映像で立ち上ってきた。
するとやにわに、それらの人々の行ったことが今の時代に繋がっている、という意識が湧いてきたように思う。そしてこれは前に書いたのだが、白黒フィイルムを見て、それを脳内で補正してみる機能が最近個人的に発生した。
すると白黒のパントマイムのような奇妙な動きとナレーションが飛んで、その奥にあるいきいきとしたその時代の気分、のようなものが身近に感じられるようになってきた。
また、これも最近よく書いているが、チンパンジーと人間は「同じ種」といっていいくらいであるという。「親ガチャ」というが、チンパンジーにしてみればこの「親ガチャ」の効果はものすごいものがある。人間とチンパンジーの格差はでかい。
猿山を見て、昔から息苦しくなる。ボス猿、を見る。前ボス、が老いて力が衰えて新しいボスに追い落とされる。端っこで苛まれて生きている。
おべっかを使うもの、毛づくろい(本当はしたくないのでは)をしているもの。
わざわざいわれなくとも、それが人間社会と同一のものであることがわかる。
みんな服さえ着ていないのだ。
そこは、「王国」である。個体として強いことがとにかく最上の条件だ。だがそうか?より強い個体が来れば、短期で最低に落ちる。それが幸せといえようか。言えまい。だが、「雄」に生まれると猿山では自身の序列を否応なく認識させられ、その役割を生きるのだ。勝ち組、負け組、キモオタ、すべて猿山に含まれている。
宗教、というものは、猿山の閉塞感が生んだ、ともいえるだろうか。生きることのしんどさ。この生だけなのか。なぜこんなにつらいのか。
その「ルサンチマン」が「来世」を生み、「次回の生がありそこでは逆転している自分」を心に持つことが、生きる上でのよき方便になる。そういう知恵が宗教を生む土壌となったようにも思う。
それは「進化」といえるのか。よきものになってゆくのが「進化」であるのなら、「変化」かもしれないが。
猿山のボスが王である。貴族である。領主である。社長である(特に個人ブラック企業)。
ボスがいれば、その他は部下である。ボスと部下。可能ならはぐれ者。多分集団生活でははぐれ者は長生きできないだろう。
ボス猿はもう勘弁、というところで出てきたのが資本主義。だがあらたな「金持ち」というボス猿の出現に幻滅して、ボスをひきずり下ろしてみんな平等に、という幻想で生まれたのが社会主義、だが結局社会主義でも独裁者は生れる。資本主義の方が、「小物の独裁者」「可能であれば取り換えられるかもしれない」ということで、いま資本主義にいるのだ、というのが、ざっくりとした個人的な理解である(あくまで個人の理解です)。
そして今出てきたのが、インターネットによる国を超えた「地球人」意識と、限りなく「強制ではない共所有」に近づく「シェアリングエコノミー」「コモン」という概念であろう。
今はアフリカ諸国と先進国との差異はある。だがそれは多分数百年単位でみれば解消に向かうだろう。人数比でいけば、西欧人やアジア人は漸減デ、アフリカ系の人の人数がメジャーになる気もする。
国、というくくりは残るだろうが、その意味合いは大きく変わるのだろう。人種も混淆するだろうが、もともとの出自、地区名、といった程度の、いまの日本の県による差異レベルまでいくだろう。これは1000年先くらいだろうか。
ひとはサイボーグとなり、長生きして、その数を減らす。一人300年位は生きるだろう。その場合は脳だけだろうが。
すこし飛躍したのだが、長期的にみればそんな感じであろう、と思っている。
(ネットが生まれたことは、人類史でも大きな変化でしょうね。。)