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7月16日 日常知性の限界線。まあ、「悟り」の概念と近いですかね。
「本質直観」によって個別者の裡に普遍者を把握することは、いわば日常知性の限界線と見ることができるであろう。
個人が「普遍」に邂逅することは、結構難しいことだろう。
まあ、日々の生活で、「遺伝子組みかえ納豆58円」とか、「本は古本屋で買うべきか新刊か」とかを考えているのとは違うレベルではあるだろう。
だがまあ、「とりあえず買った古本に”普遍”を感じた」というのはありうる。
人類智の集積でありうる、本の魅力の一つだろう。
まあ、そのことはおいておいて。
「生」というもの、「存在」というものを考え続けていると、まあ、解がない、というか、どれが正解かわからない、というか、そういうことからなんとなく「理性」「理論」から、「直観」による理解のほうに行くように感じる。
だが、あまり安易に「直観」といっていると、これまた「直観を得る手段」をパッケージで入手しよう、などと思って「壷商法」に取り込まれることもあるだろう。
そのあたりが禅であれば、公案であったり、作務であったり、ということかもしれない。
小悟は数知れず、であったか、狐禅、であったか、正しい語を想起できていないかもしれないが、安易に「悟った」と思うことの危険をくりかえし禅は説いていることも思い出す。
まあ、そんな注意はあるにせよ、「本質直観」を得て、そこから「普遍者」(まあ、「一」や「神」や「永遠」という語でもいいかもしれないが)を垣間見ることこそ、「人」として生を享けたことの最高の瞬間かもしれない。
だが、なかなかそのことの重要さが受け止めきれず、挙動不審になるリスクも、実は高い気がする。
そのあたりを禅は、なんどもなんども、注意喚起しているのだろう。
(普通は普遍者のことは、感じることも難しいですね。ですが本をみればそういうことができた(気がしている)人を知ることができますが、でも理解することや理解すべき理由を説明するのも難しいところですね)
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