日記12月12日。 #日記
存在は曖昧なもの。
西田幾多郎や井筒俊彦がよって立った”述語主義”という概念を知った。
「花が存在する」のではなく、「存在が花する」ということ、つまりは具体性ははじめから確立しているわけではなく、未限定的で不定で曖昧なものから立ち上ってくる、という考えのようだ。
(先日購入の”未来哲学”創刊号中の山内志朗氏の文から)
これは、”一”と親和性が高い考え方だと思ったのだ。
すべてが一である、ということ、これは自分の直感としてはそれ以外は考えられないし、皆さん(皆さんも一の一部だが(笑))もいつかはそうお考えになるだろう、と思う考え方だ(ややこしいがここでいう”部”の語は、区別される意味ではなく、なだらかな濃淡を示す意味と取ってください(笑))。
まあ、ことさら誰かに主張し認めてもらうようなものでもないので、それはそうだなあ、とぼんやりと”その考えをチェリッシュしている”。
この”チェリッシュ”ということば、昔そんな名前の夫婦デュオ?があったなあ、とか”明治のチェルシー”という硬めのキャンディーがあったなあ(好きでしたが途中で鋭角部分が形成され、よく口中を切ってました泣)、とか思うのだが、親鳥がひなを大切に思ってやさしく包んでいるイメージであり、好きな言葉の一つである。
昨日は(これを書いているのは9日です)版画教室へ行った。名古屋駅から歩いてゆく。最近はコートを着るかどうか微妙で、昼間はいらないだろう。朝晩は5から6度くらいであるので、着ていてもいいし、肌着やセーター、マフラーと手袋があればなんとかなる感じもある。
一昨日はコートなし、昨日はコートありとした。日暮れが今は早く、17時でほぼ日没だ(夕焼けの最後の光が残っているかんじ)。周りが暗いと、なんとなく身体の周りをくるんで、防御したいような気がする。これは野生時代(むかし角川でそんな雑誌あったような)の遠い名残なのだろうか。
版画教室は2時間だけなので、それほど多くの作業ができない。その日なにをするかを大体決めていればいいが、なんとなくだとあっというまに2時間が過ぎる。昨日は毎年作っている教室の画集(各人が1枚ずつもちより、それを冊子に挟んだもの)のためハーネミューレ紙を購入。版画用の特別なものなので、ここでは780mmx540㎜のものが1枚440円。3枚買って、画集用と次回以降の刷り用にカットをした。
あとは次回作用の亜鉛版(ここでは腐食が大変なので、通常は銅板ではなく亜鉛版にて腐食)の準備をした。こうして準備をしておけば、作り出すときの心理的ハードルが下がる。新作に取り組むのは、車の初動と同じで、エネルギーが必要である。一度走り出せば、そのあとは結構単純作業なのだが。普段からできるだけ下書きをして、その中からなんとなく次回作を選ぶ。ここはどうやらすこし寝かせて、何枚かをならべたりしながら、じわりと”次はこれかな”と感じるものを作るのが自分としてはいいようだ。最近作った猫の版画(トップ画像にはめ込みました)は、下絵はもう5年以上前に描いたもの。いつか清書したいなあ、と漠然と思っていたので、版画にできてうれしい感じだ。そしてやはり”寝かせは必要だなあ”と思っている。
(義務感でやると、創作は結構ストレスですね。仕事と同じかもしれません。テーマのある展示都会だと、その為に作るより、もともと作ってものがそのテーマにたまたま合う、といういうのが助かります。いまギャラリー・ルミエール様でやっている(私は2点出展)”小さなアリス展”などは、今までアリス絵をやってきたので助かりました)