12月8日(水)#日記 ドナドナと宇野 亜喜良と金子国義。
昨日は銅版画教室へ。名古屋駅から栄地区まで徒歩で往復。小雨であったが、この移動は貴重な一日1万歩可能手段の一つであるので、決行した。
昨日の名古屋は雨であったが、気温はおとといよりも上がった。名古屋駅から栄まで、30分ほどで歩く。地下鉄であれば二駅(確か(笑))分である。
本当は階段も教室のある10Fまで登りたいところだが、最近はエレベーターにしてしまっている。まあ、歩けることでまあまあ及第点だ。
雨だとやはり歩いているひとはまばらである。天気がいいと、結構道は混んできた。ちょうどあるくにはいいシーズンだからだろうか。栄地区、あるいは伏見地区で働いている人は、たぶん名古屋駅まで歩く人が一定数いるのかもしれない。
結局昨日の歩数は、9799歩であった。少し1万には足りなかった。おとといもトレーニング後は一駅あるくようにしている。これも1万弱。すこしうろうろすると1万を超えるのだが。
昨日帰宅時の体重は64.4kg、体脂肪率は8.8%であった。すこしだけ落ちてきているだろうか。昼間は少しだけ白米を食べるようにしている。低アミロース米かどうかは不明だが(たぶん違うだろう)、糖分を食べたあと運動すれば、糖分が体内にいきわたり、余分な糖分として蓄積されにくのでは、と思っている。低アミロース米だと血糖スパイクで午後眠気が来る(寝不足もあるだろうが)のが懸念される。だがグルテンフリー(風)生活であるので、まったく糖分を取らないよりは取ったほうがいい、と思っている。
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本を買った。AMAZONで買っているが、翌日に届く、玄関先配送、ということで心理的ハードルが下がった。下がってしまった。
私は本を売るのも、趣味の品々を売るのも嫌だ。なので物理的に勝手に書斎と言っている3畳の部屋(これがあるのは本当に贅沢なことで、ありがたい)にモノが置けなくなったら、困るのだ。前に一度、買いそろえたソフビやら、昔から持っているマンガやらを古書店やまんだらけにダンボールを何箱も車に積んで、売りに行ったことがある。
まさに心境はドナドナだ。本やフィギュアに別に魂がある、と思っているわけではないのだが、フィギュアは畢竟ヒトガタであるし、マンガにはそれこそ何千というキャラの人生が詰まっている。
ということで、「すんません」という思いがあふれ出る。あと本も相当売った。こちらもマンガと同様だ。
自らがその本やらマンガやらフィギュアやらに掛けた、つい浮かんだ思いもともにすてるような気がする。極端なことを言えば、自身の魂の一部を切り売りするような気さえする。身を切る、とはこのことか。
売りに行く間、自身の感情を殺していた気がする。まさにドナドナ。ドナドナの悲しみは、売りに行く馬(牛だったか?)の世話は少年がしているが、根源的の生殺与奪権は彼の両親、というよりは、生きていかねばならない、という彼を含む家族からの、少年の中では抗えないところにあるのだから。
私の場合はどうか。自身のコントロール下にある、と思っていた3畳の部屋であるが、思わぬところから指令を受けるものであることがわかった。
地震への備え、である。
ダンボールが唸っている部屋であれば、地震(ここ東海地区は地震がいつきてもおかしくない、と言われています)の際、頭に飛来し、死亡する、と家人に言われたのだ。
純粋に私の生命を心配することばに、抗うことはできなかった。なにしろ自分でも「確かにそうだ」と思うのだから。
本の山の中に住まれていたかたが、先の地震で本に埋もれて死亡なさった例も記憶にある。
なので、ドナドナったのだ。あの悲しい記憶を思えば、やはり本の購入は控えねば、となるのだ。
だが、今回は画集だ。敬愛する画家の宇野 亜喜良さんが、87歳にして最新画集を出された、ということを知ったのだ。音速レベルで(光ではないのは、上述のとおり)ぽちったわけである。
届いた。一言、素晴らしい。私が日本の先達で尊敬するおしゃれで洒脱な画家といえば、故金子国義先生と宇野 亜喜良先生だ。この二人のお洒落感は、国際的にも通用すると確信している。
AGE IS JUST A NUMBER. という言葉がある。わざわざ言うところに力みを感じるのであるが、言葉にすることで意識できることもある。
そして画家は、歳経るごとに円熟する、という言葉も浮かぶ。
この画集、とにかく素晴らしい。印刷技術の粋も楽しめる。オリジナルもこの通りだろう、という素晴らしい印刷である。あるいは印刷ならではの味があるかも、とも思われる。
宇野亞喜良画集 カレイド・スコープ
(ひねりのない表現ですが、素晴らしい、という言葉が自然と出る画集です)