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12.17 デリダ論BY 井筒俊彦。

天野忠

「動物園の珍しい動物」

わたしは死ぬときは
あーあというであろう
あんまりなんにもしなかったので
はずかしそうに
あーあというであろう。
存在の実相 デリダの存在感
意味の深みへ 井筒俊彦 P.123

己れ自らと異なり、己れ自身から繰り延べられたものには、「始原(アルケー)」も、「窮極(テロス)」もない。こうして、自らの真の始まりも知らず、自らの終局目標も持たず、己れ自らと「相移」・「相異」する無数のものがまた互いに「相移」・「相異」しつつ、刻々に流れていく。それが存在の実相だ。

存在を考えることは、死を考えることに似ている。人は自身に与えられたもっとも自身を出しやすい形態にて、それをなんらかのかたちで、人によっては態度で、かそけく、なんとかそれを表そうとするであろう。

私もまた。

死の向こうは見えない。見えないものを「死」という。

かつて池田さんは、死の向こうを知ろうとする試みを評価されつつも「おっちょこちょい」と評されたように思う。死の向こうを直截に考えるよりは、自身を、存在を、考えなさい。そのようにおっしゃったように個人的には理解している。

西洋の教養では、「死を想え」と伝えた。メメントモリ。死から目をそらすな。

なんというか、日本での火葬がリセット感を持ちやすくしているように思う。もちろん灰からよみがえるフェニックスはいるが、土葬であれば埋めるときは人は形を保っている。勢い、復活、という気持が残るのだろう。

(水木一郎さんが亡くなりました。素晴らしい歌の数々、本当にありがとうございました。詩人は詩心を、画家は絵を、哲学者は真実を後世に残しますが(この「後世」という語も意味深い)、歌手は歌声が残るようになりましたね。)






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豆象屋
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